SARAVAH レーベル

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サラヴァ・レーベル(EDITONS SARAVAH)

サラヴァ・レーベルロゴ

にフランスのシンガーソングライターにして俳優のピエール・バルーが設立した音楽のインディレーベル。

世界を放浪しながら歌を書いていたバルーは自分で決めていたように30歳までは何もしませんでした。30歳になるとその時を待っていたかのように、彼のアルバム(Vivre)はリリースされるは、ラジオ番組のDJとして毎週2時間番組をもつは、で一気に世に出はじめました。そのころ知り合った無名のニュースカメラマンであったクロード・ルルーシュと一緒に自主製作した映画が「男と女」です。

自主製作のため、資金が途中で足りなくなって撮影は中止になりました。そこでバルーは映画主題歌になった自作の歌を出版社やレコード会社に売って資金を提供しようとしましたが、当時映画音楽といえば、オーケストラのような大編成で、歌のないものと決まっていました。作曲はエスタブリッシュな作曲家と決まっていました。彼が選んだ作曲家は当時流しのアコーデオン弾きであった無名のフランシス・レイ。誰も相手にしてくれませんでした。バルー自身の所属していたレコード会社も断ってきました。そこで、なかばヤケになって作ったのがサラヴァ・レーベルであります。その後「男と女」はカンヌ映画祭でグランプリ、ハリウッドでアカデミー賞を取り、映画音楽は世界的ヒットとなりました。サラヴァ・レーベルはそこで得た著作権で新しい才能を世に出そうとレコードを作りはじめ、45年たった現在も作り続けています。

よく、映画の成功によってレーベルが作られたという人がいますが、これは映画が不成功と予測されたおかげで生まれたレーベルなのです。

サラヴァ・レーベルで最初にプロデュースしたのはブリジット・フォンテーヌとジャック・イジュランです。当時、アングラと言われていた彼らですが、その後の演劇や音楽に大きな影響を与えたカフェ・テアトルのムーブメントを引っ張っていた人たちでした。バルーは彼らに1枚づつアルバムを作りました。それで自分の役目は終わり、と思っていたのですが、時は代のパリ、戦後の素晴らしい経済成長の中でみずみずしい才能が次から次から出てきて、結局バルーはプロデューサーやり続けることになったのです。輝かしいパリを目指して、アフリカからブラジルからもアーチストがやってきました。当時ヨーロッパ人の意識ではアフリカ人やブラジル人に音楽ができるとは考えられなかったのですが、バルーは彼らの音楽性に打たれ、世界で初めてのビリンバオのアルバム、世界で初めてのアフリカ人のアルバムをリリースしました。ワールドミュージックの先駆けとして、サラヴァ・レーベルは極小レーベルながら世界の音楽好きに有名なのはそのような先見性とユニークさが認められていると考えています。

レコードというものが消滅しかかっている現在ですが、音楽は滅びないし、人の心に潤いを与え続けています。サラヴァ・レーベルの役目は大きな会社では扱えないようなユニークな才能を育て続けることと自覚し、これからも活動を続けます。

ピエール・バルーの人生に興味のある方は彼の著作で詳しく書いてあります。


  • サラヴァ・レーベル公式サイト「Editions Saravah」(フランス)
  • 日本でのライセンスは、ヤマハミュージックアンドビジュアルズ
  • TOWER RECORD で サラヴァ を紹介しています()
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