出前サラヴァ
4月28日と29日に岩手県大槌町で歌と踊りの「出前サラヴァ」を行いました。
発端は4月。リアとノリシゲとサラヴァの出会いです。
リアはギリシャ人とのハーフのかっこいいシンガーで、昔、信太美奈あねごの生徒さんでした。信太美奈さんと言えば、基はワールドスタンダードのメンバー、声楽の先生として音大で教えるほか、サラヴァでは若いミュージカルのアーチストを引き連れてバガボンドナイト、と言うとても楽しいバーレスクナイトを催してくれている、サラヴァ魂を代表するキーパーソンです。
彼女は一度はタレント路線でメジャーデビューして、うまくいくのですが持ち前の自由な精神に、(自分のルーツを探る旅にヒッチハイクでギリシャまで1ケ月かけて行ってしまうような子なのです)芸能事務所の方針は合うわけもなく、自分でアーチストの道を歩んでいます。
リアのサイトです/p>
ギタリストで作曲家のノリシゲとの間に4歳の元気あふれる女の子がいます。去年の3月の地震の後、彼の故郷大槌町吉里吉里まで何とかたどり着いて、車の中に泊まりながらが、がれきの撤去からはじめて、村の人たちと遺体の捜索をしていたそうです。
以下に当時、私が書いたブログがあります、HPがまだ整備されていなかったのでアップできずにいた原稿です。
《震災・リアの場合》
リアは元気で美人のミュージシャン、シンガーである、友人で、音楽大学でミュージカルの教授をしている信太美奈の紹介で知り合った、マイア・バルーの仲間でもある。
震災の後10日間サラヴァを閉めた後。おそるおそる店を開けたあと、しばらくぶりのショーケースの晩4月14日にリアとギタリストのノリシゲさんが出演した。ショーケースとはオープンマイクの日で、誰でも表現したいことのある人にオーデイションなしで20分間マイクとピアニストを提供するといういわば、ライブハウスが表現の「自由の砦」であることを表明する看板イベントである。
彼らはステージからこんなメッセージを流した。
ノリシゲさんの実家は岩手県大槌町吉里吉里だ。震災の後、何はともあれ2人は車で駆けつけると、道路は寸断され、とても町までたどり着けない状態だった。何とか徒歩で近くまで行くと、街は跡形もなく破壊された上に重油に火がつき燃えていた。母親は行方不明だったが親籍の家に避難していた。それから2週間ほど車の中で寝泊まりしながら、町の人たちと遺体を探した。何十という遺体は一様に黒こげで、手はまるでボクサーの姿勢のように丸く構えられていた。電気も暖房もない状態で、食料も東京から持って行ったものだけでしのぎながら、何とかみんなで協力して遺体を集めた。(ちなみに人口1万5千人の大槌町では死者、行方不明合わせて1300人、つまり10%近くの犠牲者があった。)誰の遺体か、の判断はつかないままであったが、とにかくこれらの人を弔わなくてはいけない。町の人たちとみんなで山の上で流されなかった寺に集め、合同葬儀をするつもりなのだが、捧げる花がない、と気がついた。そこで東京に取って返して、皆さんの募金を集めたいのです。と言って、都内の何軒かのライブハウスを廻っていたうちの一軒だった。
あのころ、ざわついた心のまま情報にほんろうされる日々が続き、こんなままではいけない。何かポジティブで楽しいことをしようよ。と先に出てきた信太美奈とアクセサリー作家の岩切エミと相澤久美の4人で、1ヶ月たった5月連休のすぐ後5月の7と8日に「春祭り」というタイトルで、2日間のイベントをサラヴァで開いた。気がつかないうちに春になってしまった。楽しんで募金を集めよう、という意図で、バザーや東北の酒の利き酒、楽器作りのワークショップ。鎌仲ひとみ監督のぶんぶん通信、纐纈あや監督「祝の島」、などの上映会、ライブコンサートを開いた。その時に再びリアと彼はステージに立った。
(5月8日サラヴァ東京で、みんなで歌いながら涙が出ました)
この前は皆様ありがとうございました、おかげで1000本のお花が買えました。スライド写真を見せながら、リアは合同葬儀の様子を語った。
まだ遺体が見つかっていないのに、どこかで生きているかも知れないのに葬儀なんていやだ、出席はしない。という人たちもいたが、見つかった遺体だけでもみんなで弔いましょうと声をかけて結局多くの人が寺に集まった。そして、1000本の奇麗な花が確かにずらりと並ぶお棺の上に供えられていた。
リアと彼が作った「歩きましょう」というシンプルで美しい歌を合唱しながら私たちは悲しみに胸をつかれ、同時にライブハウスが役に立てて良かった、とスタッフともども誇りに思った。
夏がやってきて、噂でリアと彼が大槌町吉里吉里に引っ越してコミュニティカフェを開いた。と聞いた。リアたちはあまりに忙しくブログもフェイスブックも持たない。だから電話で近況を聞いた。
実家の土台だけは残っていたので、その土地に廃材を拾ってきて2人でなんとか小屋を作った。まだ電気がきていないのだが、プロパンガスを買って、開店の準備は進んでいる。復興計画では山を切り崩して宅地を作って、流された家の土地を国が買い上げて、その代金で新しい宅地を買ってくれということなのだが、もともと急な山が海に迫っている土地で、ブルドーザーも入らないような地形なのでいったい何年かかるかわからない。公民館も流されたので、人々が集まる場所がない。住民はこわれた家を直して住んだり、仮設住宅に住んだり、広い地域にバラバラになっている。大変孤独である。コミュニティカフェで本を読んだりコーヒーを飲んでくつろいだりして欲しい。
リアは外見だけ見ると六本木のおしゃれなクラブが似合うようなかっこいい子なのだが、こんなこともできる勇敢な人だったことに驚いた。
大槌町は不便な場所で、冬になると道路は凍って車も通れなくなる、すると外界と切り離されて普段でもうつ病になる人がいるのに今年の冬はどうなる事か恐ろしい、音楽の人は今まで結構来てくれたが、それ以外の人はこない。違う土地から人が来てくれたらだいぶ気分が変わってよいのだが。とも語っていた。
確かに大船渡へは車で10時間かかる。バスは1日1便、池袋から近くの大槌町まで夜行バスが出る。
復興のために何かしたい、と考える人は多いのだが、彼らに一番必要なのは、我々都会人が最も持ち合わせていない、「時間」なのかもしれない。
秋
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(4月28日 見晴らし台から見た町、何にもなくなってしまった)
彼らに必要なのは、雇用と現金、自分の家など、我々にはどうすることもできないものだろうが、気晴らしくらいなら我々でもできる。
彼らのカフェに行って演奏する機会を待っていたのだが、何せ毎日ライブのあるライブハウスである。我々スタッフがいないと機能しない。そこにチャンスが巡ってきた。演劇グループの「空(utsubo)」が4日間借り切って演劇公演をすることになったのだ。一人コアのスタッフにハコを守ってもらって私たちは「出前サラヴァ」に出かけることになった。
カフェAPEのアペはアイヌ語で火の意味だそうだ。本当に何もなくなってしまった町の家の土台だけが残る広い広い野原にAPEはあった。大工ではないノリシゲとそのお兄さんとリアが作った掘立小屋はまるで西部の開拓の人たちが建てたみたいで下手な建築家の作品よりか、ずっとロックンロールでかっこいい。
瓦礫の中から断って拝借してきた薪ストーブが2台。杉の製材した残りの皮つきの板に、何せ壁はビニールシート,天井もグラスファイバーのトタン屋根である。いすやテーブルもすべてもらいもの。天井からブル下げたドリームキャッチャーが静かにまわっている。めっちゃくちゃイケている。このカフェAPEの存在自体が、私たち生きているんだよ!と叫んでいるようだ。町があったこの地区はこれから6年かけて土を6m盛っていくそうで、それまで家を建ててはいけない。だから彼らのAPEは違反建築だそうだ。だけど縦割り行政で、衛生面ではOK,保健所の免許はおりている。なんか不思議。そんな不思議な理屈なんて、考えないでとにかく生きる。って言うメッセージにあふれている。
死と破壊の風景の中で、彼らの小屋は人間のたくましさの証みたいに輝いて見えた。
とりあえずの報告です。連休中に続きを書きまっす!