作家紹介

TAGAMI たがみ

山口県在住の画家、田上允克(たがみまさかつ)。30歳から独学で1日に4-5枚の作品を作り続ける。




  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克
  • 田上允克



TAGAMI 略歴

1944
山口県生まれ
1967
山口大学卒業
1973
東京に出て水彩画を描き始める
1974
油絵、銅版画を始める
1978
銅版画個展(東京シロタ画廊)
1981
油絵個展(東京シロタ画廊)
1982
横浜に移住
1984
現代画廊にて版画展(洲之内徹氏のテキストあり)
1986
版画をやめる ニュー墨絵を始める
1990
神奈川県秦野に移住 紙にミックスメディアで書き始めて現在にいたる
2000
京都に移住
2004
東京日仏学院で個展
2006
山口県に移住
2013
アツコバルーにて個展




田上允克さんとの出会い(アツコ・バルー)

私が田上允克さんの絵に出会ったのは、2003年の博多でした。

私のパートナーであるピエール・バルーは、15歳の時から言葉と音楽と映像で自分を取り巻く世界の証言者になろうとして、世界を放浪し、出会った素晴らしい人びとを数多く紹介してきました。彼にとって歌はビジネスではなく、人生を生きるための言語です。

彼は、いわゆるコンサートを開くことに興味がありません。しかし、出会いのため、人との交歓のためであれば、どこにでも行き、ひとにぎりの聴衆のためにでも歌います。

そんな彼の生き方に共鳴してくれたのがヤヒロトモヒロです。彼は、ふだん、生の音楽を聴く機会の少ない地方で、神社、農家、ギャラリーなどの協力を得て、コンサートツアーを行っている異色のパーカッショニストです。その彼が求めるのも、出会い。

バルーは彼にすすめられ、2003年、約6か月にわたって北海道、東北、関西、九州は奄美大島まで列島を縦断するツアーに参加しました。実にさまざまな人びと、地方の文化に触れることのできた忘れがたい音楽の旅でした。

秋、10月、その日は福岡にある「ギャラリー香月」(現在、ギャラリー森田)でコンサートが行われることになっていました。壁にはいくつもの絵が架けられていましたが、ある絵が彼と娘のMAIAの目に止まりました。

バルーは学校教育を拒み、美術館は墓地だと言い切って入ったことさえありません。

そのため正統な美術の知識はありませんが、説明できない強い引力をその絵に感じたようです。旅で出会った感動の数々とともに、その時は作品をビデオカメラに収め、また次の土地へとツアーを続けました。

バルーに同行したフルート奏者で私の長女MAIAは、彼が印象だけに留めた出会いの数々を人とのつながりとして残しました。「ギャラリー香月」で働いていた原田和加子さんが送ってくれたその作家のカラー写真を東京の自宅で受け取ったのも彼女でした。ところが、日本とフランスの間を飛び回っている彼女は机にそれをしまったままで、私に見せたのは半年後でした。

私は見るなり、「これはただものではない。ぜひ本物の作品を観なくては」と直感しました。ギャラリー・オーナーの森田さんと電話のやり取りの後、2005年6月、ようやく私たちは田上さんの実家、山口県の小野田に行くことができました。

作品の評価はご覧になった方にまかせるとして、絵画とともに私たちが山口で発見したのは「田上允克」その人でした。

山口の大学で哲学を学んだ後、30歳まで自分は何にも興味がなく、映画を観ても意見というものが一切ない人間だった、と彼は振り返ります。業をにやした父親に追い出されるように東京に出てきて新聞配達をしていたある日、近所のアトリエ「鷹美」をのぞきます。田上さんはそこで、「これだ」と打ち震えます。すぐに父親に電話をして、やりたいことがやっとみつかったが、どうやらお金にならないので、一生、生活の面倒をみてくださいと頼みます。いぶかる父親が「俺が死んだら?」と聞くと、「自分も死ぬ」と田上さんは答えます。父親は、ただならぬものを感じたらしく承諾してくれたそうです。

その日から30年間、睡眠時間4時間で1日平均3枚から7枚の絵を描いてきました。 エゴとの葛藤やスランプとも無縁で、ひたすら「時間が惜しい」と描き続けます。 まるで目から魂、魂から手へと、一気に電流が流れているようです。 しかも30年間停電することなく。スタイルは一つに固執せず、1日の中でも、抽象だったり漫画風だったりと1枚ごとに変わります。

田上さんは描くのに忙しいため、展覧会を開いても会場に赴くことがありません。作品はほとんど売ったことがないので、小野田の実家の納屋にはアリババの洞窟のように3万点にのぼる膨大な作品が積み上げられています。

アートの狭いマーケットの中で若いうちから既存のカテゴリーに分けられ、バーコードを打たれて箱詰めされた作家たちが世に出ようともがいているとき、田上さんのような芸術家が、人知れずわが道を高速道路のごとく突っ走っている。その爽やかさ、まっとうさに私は驚愕しました。 そして何よりも、彼の作品のレベルの高さに脱帽しました。

彼の優れている点はいくつもあります。その一つが構成力です。レイアウトするとき、四角い紙の上のどこに1本の線を引くべきかを彼は知っており、エラーはありえません。そして、色のセンス。これも、エラーがありません。多くの色を使っても散漫になることがなく、美しさが際だっています。それが絵の集中力とパワーとなり、ただの四角い平面であるはずのものが大声を上げています。

私は田上さんの絵の声の大きさに驚かされました。まるで絵から声が飛びだしてくるようです。

そして最後はデッサン力です。彼は人体しか描きません(想像上の動物を描くこともありますが)。そのデッサンたるや、並みの画家は田上さんの絵を前にして恥いるべきでしょう。 彼の描く人間は皆生きているのです。

田上さんの作品は、どんどん変わって行きます。それは売る方として困ることですが、彼はそんなことは意に介しません。初期はゴヤのような暗い人物グループ、それからジェローム・ボッシュと漫画が合体したようなグリーンやブルーを使った動物や人物の作品。その後、しだいに抽象に向かって行きます。同時に反立体の顔だけのシリーズ。10年ほど前からは、紙に大きな筆で抽象を描いています。これは"誰にでも描ける絵"、こんな風にも描けるんだよという例を示しているのだそうです。

書き忘れましたが、素晴らしいのは版画です。刷る手間が惜しいのでほとんど1枚しか刷っていませんが、1000枚くらいあるそうです。

とにかく百聞は一見にしかず。 田上允克さんの作品をどうぞご覧になってください。

アツコ・バルー




※現代画廊(銀座)1984年8月23日~9月5日 太蛾亜美リーフレットより

饒舌と寡黙のイロニー(ワシオ・トシヒコ)

 名前というのは、自分にとって大義があっても、第三者には識別するただの記号にすぎない。どんな突飛な画号や変名にも動揺しないが、太蛾亜美(だがあみ)さんだけは例外だ。最初から引っ掛かったので、画廊の佐藤さんに訊いたところ、本名は「田上充克」だという。なんと、苗字の音をそのまま別の漢字に置き換え、フルネームにしてしまったわけだ。田上充克を「太蛾亜美」にメタモらせたこの戯画精神こそ、密室の中で、銅版上に異様な幻想的イロニー空間を腐刻させる弾機になっているのではないだろうか。

 改めて記すまでもないが、この地球は人間だけのものではない。鯉のもの、ナマズのもの、狐のもの、竹の子のものであり、その他ありとあらゆる生きとし生けるもののためにある。鯉やナマズや狐や竹の子側に立てば、人間たちだって同じ生きものの一種にすぎないのだ。太蛾さんの深奥には、いつもこうした思いが脈打っているような気がする。

 例えば、古くから「鰯の頭も信心から」といった諺がある。太蛾さんにはこれを、鈴の尾をつけた鰯のような魚の頭が載った皿の前に、一匹の巨大な鯉を人間やけものたちにむりやり引きずり出させ、神妙に拝ませる鳥蛾図として作品化する。また、「桃太郎」や「浦島太郎」などのお伽噺から部分的に着想したと思われるイロニーも多い。ポッシュやブリューゲルのように、空間をそうしたさまざまなことばで饒舌に充たす戯画もいいが、線刻やフォルムが何ともくすぐったくおかしみがあり、それでいてほのかなポエジーの気配を感じさせる比較的新しいのもなかなかいい。

 200枚から300枚ぐらいのデッサンを一度にドサッと画廊に預けるほどの努力家だ。磨かれたテクニックにそう狂いがないし何でもできる。狂うとしたらむしろ、日常のぬるま湯にとっぷり漬かり、驚きを忘れてしまった見る側の平衡感覚の方かもしれない。(詩人・美術評論家)




画廊から(州之内徹)

 ワシオさんの書いているとおり、太蛾亜美はタガアミ、すなわち田上である。私がつきあいを始めた頃は、彼が田上君であった。それが突然太蛾亜美になったとき私はあっけにとられたが、彼はただ静かに笑っているだけであった。何事につけても彼は説明ということをしないのだ。自分の仕事についてもそうである。その点もいまの若い人としては変わっている。

 つきあいは、もう十年くらいにはなるだろう。いまでも若いのだから、考えてみれば、その頃はうんと若かったわけだが、彼は裸婦のデッサンに夢中になっていた。画用紙は高いからといって、ザラ紙を買って使っていたが、彼の描く数量からいって、それも当然と思われた。画廊が休みでしまっていて、翌日、私が行くと、ドアの前に、縄で縛った何百枚ものデッサンが置いてあったりした。

 うまいデッサンで、私はいつも感心したが、感心しながら、私は一種の危惧を感じた。彼はいつも茶色のコンテを使ってザラ紙に描くのだが、コンテにも紙にもなれ過ぎて、仕事がすべってしまうのだ。よどみがなさ過ぎる。仕事が深くなるための引っかかりがない。

 かといって、どうすればいいのか、私にも分からないのだったが、彼がエッチングをやり始めたとき、あ、これだなと思った。手間のかかるエッチングの工程がすべり止めになったのかもしれなかった。イメージが画面に食いこんできた。

 それにしても、彼のイメージの、この豊富さはどうだろう。ヴァラエティの豊富さだけを言うのではない。内発的なものの豊かさを私は言っているのだ。ガツガツしない。悠々たるものである。だから、得てして類型的になりがちのこういう発想がそうならず、一枚ごとにみな新しく、面白く、生きている。グロテスクの中にいつも彼独特の静かな笑いがある。そして、ここへ来て、むかしの彼のあのデッサンが物を言っているのに私は気が付く。危な気がない。

 彼の才能、真に恐るべし。

Back to Top