2016年5月 1日 更新

戸川昌子さんの思い出


出会い

私が青い部屋に初めて行ったのが1984年の事だからもうかれこれ32年のお付き合い、と言うことになる。きっかけは連れ合いのピエール・バルーがもらって来た『る・たん』と言う小さなシャンソンの冊子だった。大野修平さんは音楽ライター。シャンソン好きが嵩じて雑紙を出していた。ピエールが最初に日本に来た当時からフランス語の堪能な大野さんはインタビューをしている。そのインタビューが載る冊子をくれたのだ。

日本語の全く読めないピエールは横文字で書いてる部分だけを拾い読みしてこの『Chambre des chansons』とは何の事か、と私に聞いて来た。それは広告の欄で、都内でシャンソンが聞ける店が載っていた。フランス語の脇には日本語で「青い部屋」と書いてある。「ああ、これは有名な歌手で作家の人がやっている店よ、でも私は行った事がないわ。なんか特殊な感じのする店だから」と、私。「じゃあ、行ってみようよ。」と、彼。当時まだ20代の私は、勝手に行くべき店、付き合うべき仲間を決めていたような狭い人生観を持っていたと思う。でも興味は津々で先達の登場を待っていた。とにかくピエールに好奇心に引っ張られ、青山学院の裏手にある店を初めて訪れた。

店は本当に特殊な感じで、地下の薄暗い店内には電球に女性のズロースが傘の代わりにはかされていて、壁面には入り口にバーカウンター、奥はステージになっている。左の壁面は鏡で右の壁面には大きなエディットピアフのポートレートが6枚かかっている。床は絨毯で壁際にはビロードのソファー、小さいテーブルの向こう側はやはりビロードのスツール椅子だった。
男女の中年のお客さんが三々五々座っていて、ホステスさんと見られる女性たちはほとんどがショートカットで白いシャツにネクタイ、背広を着て、つまり男装していた。上品に着物を着こなしている女将のような人(戸川さんのお姉様)が私たち達を案内して席に着くと、何やらカンツオーネを歌う男性やさっきまでお客様にお酒を注いでいた男装の女性が、はたまたひらひらのフリルがついたロングドレスの女性が代わる代わる3曲ほど歌ってはお辞儀をし客席に戻る。すると最後に戸川さんが登場してショータイムはクライマックスを迎える。

強烈なるディーヴァ

彼女はそこにいる『客いじり』が大の得意で特に背広姿の男性客をからかい、皆を笑わせながら会話が盛り上がって来た頃、突然歌いだす。その入り方が絶妙かつダイナミック。新鮮であった。彼女にとって歌も会話も一緒のことなのだ。そして人生と歌がイコールで結びついていた。その事が貴重で素晴らしく、実はほとんどの歌手にできていない芸当なのだ。音程の正しい人やうまい人は山ほどいる。しかし自分の人生と舞台の上の自分が同一線に乗っている人はまれである。私が戸川さんを尊敬しているのはまさにその点である。それは売れているとか有名とかと全くレベルの違う人の品格の話なのだ。

ゲンスブールの歌『リラの切符切り』を日本語で歌い上げる戸川さんの身振り手振り、客を湧かせるテクニック、それは思えばピエールの青春を過ごしたパリの下町、ピガールのシャンソニエの雰囲気だった、と思う。当時ピエールを日本に招待してくれたレコード会社や共演した素晴らしい日本のミュージシャン達の洗練とは遥か遠い。ピエール自身はシャンソニエの歌手とは全然違うけれど、暖かさ。と言う面では戸川さんに近い物を持っている。そこで戸川さんの魅力に一発で参ってしまい、それから東京滞在中は毎週通う事になる。

青い部屋で歌っていた歌手達は私に言わせれば下手(ごめんなさい)だった。第一フランスで戦前や戦後すぐの時代の古い歌を重い歌い方で日本語で歌う、邦訳は字余りで言葉のリズムが無視されて意味を重要視しているから歌として弾まない。服だって当時80年代、ヨージヤマモトやコムデの全盛期にピンクのフリルである。女性歌手だったら大貫妙子さんとか竹内まりやさんとかの時代である。この時代錯誤の不思議な人たちはなんなの?戸川さんの圧倒的な魅力はわかるが、他の歌手達をどうしてあなたは好きなの?キッチュで面白いの?と聞いた事がある。もちろんフランス人で古い歌を歌っていたら自分は聞きたくないけど、彼女たちが遠い日本で一生懸命フランスの歌を日本語にして歌っている、その真剣さに打たれるんだよ。と彼が言った。当時はそんなものか?植民地主義の裏返しでは、と疑っていたが、今や日本のアニソンをヨーロッパの人が歌っている時代になった。それをなんだかくすぐったい気持ちがするのはわかる。真剣で可愛い、と思えるのだろうか?私にはよくわからない。

ある晩、青い部屋でまだ20代、と見られるワンピの女性がシャンソンを歌っていたら酔っぱらった男性が彼女に抱きついて来た。彼女は歌をやめて、男性に『やめて下さい』と頼んだ。その時店の奥から怒声が響いた。戸川さんの声だった。『歌やめんじゃないよ。抱きつかれたら抱きしめて歌ってあげんだよ。それができないならシャンソンやめちまえ!』まさにそれが戸川さんの生き方、やり方だった。うまい舞台役者と同じ。どんなパプニングが起きても自分の芸に取り込んでしまう。そして面白いステージを提供する。ああ、やはり戸川さんは本物だな。と感心した。


都会ッ子でダンディー

彼女はいつも真っ赤なオープンカーに乗ってやって来た。あのトレードマークのヘヤーとトンボ眼鏡でど派手なフィアットは目立っていてかっこ良かった。「これは私の唯一の贅沢なのよ。私も若い時は家がなくて赤ん坊が小さい時にはこのクルマのアンテナにおむつをを干しながら走っていたわ。」そのセンスが私は大好きである。港区南青山生まれの彼女は都会人でダンディーだった。女性でダンディーと言うのも不思議だが、成金のピカピカを嫌い、古いスポーツカーに、ヨレヨレになったドレスは皆オートクチュール、お金持ちではないけれど貴族的な所と昭和一桁の苦労人のハートを持っていた。でも苦労で売るのは彼女の中では禁じ手だった。一度、美輪明宏さんの本の話になって苦労話がたくさん書いてあるけど、あんなのは当たり前、皆、そうやって来たのよ、でも私はそういう事を言うのは好きじゃない。と言っていた。そういうスマートさが最期まで自分の病気の事も痛みも全て黙ったまま知らん顔して歌っていた事に通じている。

お世話になった若い才能は山ほど

彼女は多くの若い才能も育てた。青い部屋は2000年頃改装され、翌年、ソワレが店長になった。しばらく日本に戻っていなくてある時青い部屋に行ったら驚いた。すっかりきれいになって、しかもとても良いアイデア、Vipルーム、と言うかガラス張りで、音楽も少しは聞きたいけどおしゃべりの方がしたい人たちが気兼ねなくおしゃべりできるコーナーができていた。これは大変ありがたく、じっくり音楽を聞きたい人はおしゃべりに邪魔されず聞けるから、お客さんはVipルームを出たり入ったりしながら一晩すごせた。しかし驚いいたのはそればかりではない、男装の歌手もカンツオーネの男性もいなくなって、反対に若くてアバンギャルドな連中が新しい店長、ソワレに連れられて出入していた。戸川さんはそんな連中を目を細めて見ていて、皆を励ましたり、若いミュージシャン達をバックに自分の伴奏を頼んだりして彼等を助けた。

それから閉店になってしまう2010年まで青い部屋は東京で一番面白い夜のたまり場になった。私の娘マイアが17歳で初めてネオちんどんかぼちゃ商会に出会ったのも戸川さんが電話で私たちに面白いバンドがいるから是非聞きに来てくれと言ってくれたからだ。ソワレをはじめ、かぼちゃ商会、エミ・エレオノーラ、レ・ロマネスク、犬のジョン、ヒゲの未亡人、エルナ・フェラガ〜モ、信太美奈、Vivienne佐藤、マチルダ、to R マンション、日比谷カタン。数えきれない才能とオリジナリティーに溢れるアーチスト達と交わる事ができた。戸川さんがいなかったら会えなかった人たちだ。

連れ合いのピエール・バルーは彼女の事をいつも、フェリーニ監督が彼女でに出会っていたら必ず彼の映画に出演を頼んだろう。と言っていた。彼女の堂々たる存在感、そして心の広さ、つまらない奴、つまらない事を洗い流してくれるような魔法を彼女は持っていた。彼は自分のドキュメンタリービデオに戸川さんを登場させている、(かぼちゃ商会のフランス公演を追ったドキュメンタリー「サヴァサヴィアンBis」)日本に着くとまず一番に行ったのも青い部屋である。マサコに会うと日本に来た。と言う感じがする。と言っていた。ピエールの描くポエジーの国、ユートピア、ニッポンにはマサコが不可欠だったのだ。

悔いのない豊かな人生

戸川さんも私たちの事をとても大切にしてくれて、我々が店に行くと絶対お金を払わせてくれなかった、ベビーシッターが見つからず、幼いマイアを度々連れて店に行ったがそのたびにスタッフが走ってケーキを買いに行き、フランス語で歓待してくれた。そして必ずピエールと二人で『ラストチャンスキャバレー』をデュエットするのだ。彼女の歌うラストチャンスキャバレーは魅力的でまさに彼女の人生と同じ。『この世界の迷子がたどりつくラストチャンスキャバレー。あどけない顔して踊ろうよさあ。乾杯!』(日本語の歌詞)と歌う彼女は歌と人生が結びついた素晴らしい本物だった。

2016年の正月に日本に帰った時にステージを拝見したら、戸川さんはいつものようによく声は出ているしは元気でおしゃべりだったので安心していたら、最後まで舞台を勤め、人には言わず黙ってホスピスに行き、さっさと逝ってしまった。彼女らしいダンディーな去り方でであった。

戸川さんの筋を曲げない生き方は私のお手本だし、皆が集まるハブ。年齢も人種も関係ない音楽とアートの店作りは、伝説の1970年代のサラヴァのライブと青い部屋がその基本にある。渋谷のサラヴァ東京と同じビル5階のアツコ・バルーは同じスピリトとのもとに作られた箱だ。私は戸川さんの次の走者である。と自負している。自分らしく生き、若者たちを助けて彼女みたいにさわやかに生きたいと思う。

潮田 バルー あつ子
アツコ・バルー
Atsuko Barouh

ラミュゼ主宰 / 通訳・翻訳家


ラミュゼ主宰。パリ第五大学人類学科卒業。フランスのインディレーベル『SARAVAH(サラヴァ)』の運営に1988年より関わる。2002年『L'amusée(ラミュゼ)』設立。滞在型イベントハウス『ラ・ケヤキ』(2003年)、ライブハウス『サラヴァ東京』(2011年)につづき、アートスペース『アツコバルー arts drinks talk』(2013年)をオープン。渋谷を拠点に文化の交流と発信に情熱を傾けています。

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