2015年1月22日 更新

まだいた!1960年代の猛者 知られざるアーチスト中島由夫


草間彌生、ボクシングペイントの篠原有司男 ,パリに行った工藤哲巳、など 60年代の日本から過激な連中が世界に飛び出してあらし回っていたのが今になって見直されて、今の若い人達が、ああ、あの時代に生きていたかった、と言うほどである。しかし彼等と同時代でスエーデンに住み着いて活動しているアーチストがいた。
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今アツコバルーでやっている「中島由夫シンドローム」展は60年代から70年代の先端的なアート運動に関わったユニークなアーチスト,中島由夫の実に貴重な軌跡を展示している。

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1974年ウベボダにて

1. UNBEAT:アンビートの時代(1958-64)

中島由夫は1940年、埼玉に生まれた。1955年、ゴッホと長谷川利行に憧れた15歳の中島は、画家を目指して上京し、昌平高校に通いながらアルバイトで自活して絵を描き、路上、無料の展示場などで精力的に作品を発表していた。50年代末より中島は街頭に出て自身を「ムービング・オブジェ」と称し、アクションを開始した。

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1968年パリにて

これらは日常の中に突然非日常的状況を作り出すものであった。お茶の水のアクションではこれによって電車が止まり、警察に連行されている。当時「パフォーマンス」はおろか「ハプニング」という言葉さえなかった時代である。

57年に来日したジョルジュ・マチューによる「アクション・ペインティング」デモンストレーションがあり、中島もこれを見て感激している。また、読売アンデパンダンでは九州派や工藤哲巳、ネオ・ダダ・オルガナイザー等による既存の芸術概念を破壊 するような作品群が「反芸術」と評されて話題を呼んでいた。しかしそれ以上に中島に影響を与え、その後も継続して私淑したのはダダカンこと糸井寛二1(1920-)である。

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ダダカンと

糸井との最初の出会いは1957年。 アンビートは昌平高校美術部の仲間であった中島、田代稔、加賀見政之らによって結成された日本で初めてのパフォーマンス(それも公共空間での)を専門としたグループである。


1963年、最後となる読売アンデパンダン展で、アンビートはダダカンを加え 、東京都美術館玄関前で無許可の「ダムアクト」を行った。中島は顔を白く塗り、ダダ宣言引用文を記した白シャツを着て美術館内をうろつき、玄関前で評論家のヨシダ・ヨシエに抱きついて格闘となり、館員の通報によって警察に逮捕された。これが中島とヨシダの出会いであったのだが、中島によれば「誰か有名人を巻き込んで注目を集めよう」と田代と画策し、当時有力美術評論家の一人であったヨシダに眼を付けた。ヨシダは以来中島の活動に注目し、のち72年一時帰国の折にはサトウ画廊での帰国展を企画している。


これまではこのシンポジウムを企てた嶋田美子さんの文章の抜粋であるが,このあと渡欧してハプニングの嵐を巻き起こしてシチュエーションニスト運動に関わって行くのだが展覧会に足を運んでいただくとかなりレアな資料がたっぷり見られるし、カタログ(1000円)を買えば、詳しい解説がついてくる。これは是非見逃すことの無いように。

世界の美術史の文脈は偏っている。西洋人がメインストリーム、国はアメリカ。フランス、ドイツ、イギリスだけが歴史に書かれているではないか。私たちはナショナリズムに陥ることなく、ちゃんと中島氏の業績を評価するべき。と思う。
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2015年1月アツコバルーにて突然パフォーマンスを始める中島氏

中島由夫シンドローム:Art is Always the Next Possibility展
2015年1月25日(日)18:00まで!
1/24(土) 14:00~ パフォーマンス
1/25(日) 14:00~ アクションペインティング
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潮田 バルー あつ子
アツコ・バルー
Atsuko Barouh

ラミュゼ主宰 / 通訳・翻訳家


ラミュゼ主宰。パリ第五大学人類学科卒業。フランスのインディレーベル『SARAVAH(サラヴァ)』の運営に1988年より関わる。2002年『L'amusée(ラミュゼ)』設立。滞在型イベントハウス『ラ・ケヤキ』(2003年)、ライブハウス『サラヴァ東京』(2011年)につづき、アートスペース『アツコバルー arts drinks talk』(2013年)をオープン。渋谷を拠点に文化の交流と発信に情熱を傾けています。

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