2012年12月 9日 更新

「おうちでアート」から「あなたがアートへ」
 ラ・ケヤキの10年、そしてあたらしい試みへ

11月23日から25日、連休の3日間、松山朋未さんの展覧会をラ・ケヤキで開催した。その時のレポートはブログに書いてあります。興味のある方、素晴らしい展覧会だったのでチェックしてください。
松山朋未 個展「とこしえ_る」

松山さんの個展を終えて、新しいアートスペースを渋谷に開く計画が形になりつつある今。気がついた。このラ・ケヤキでの活動を始めたのが2002年の野外彫刻、簔口博展だから10年経たことになる。

ラ・ケヤキで私がやりたかった事はアートをホワイトボックスから引っぱり出し、住宅空間にひきつけることだった。私はひねくれているのか、アート、特に現代アートに胡散臭いものを感じていた。デュシャンが便器を泉と称してギャラリーに展示したのはすごく面白いけれど、それはメッセージであって、キャンベルスープの缶を作品にしたのと同じこと。でもそれとうちに持って帰りたい作品とは違う。しかしギャラリーはコンセプトの説明文がないとただのゴミ、のようなものをありがたそうに白い台の上に置いて、スポットを当てる。これがアートでござい。わからないならお前が馬鹿よ、とばかり気取っているのをパリでさんざん見てきたのだ。気取っているのはフランス人の国民病だが、とにかく威圧するアート、スノッブなアートにすごくがっかりしていたのだ。


アートと暮らす体験を

展覧会をするのなら、作品をゆっくり見てほしい。ご飯を食べながら、酒を飲みながら見る絵や、昼寝して目が覚めた瞬間に見える彫刻が展覧会の作品であってもよいではないか。いやむしろ、お高くとまっている「アート」じゃあ物足りない。ぐっと負荷をかけて、生活空間の匂いやアクの強さ、雑多な電機製品や子供の宿題や先祖の位牌なんかにも立ち向かってしまう、個性を強烈に主張する、図太いアートを見せたかった。

この10年間、私の兆発を受けてたったアーチストたちがこの家のために、ときには住み込んで、で様々な作品を作りだした。作品のテーマに合う食事や音楽、朗読、ダンスも同時に展開してきた。そして何よりうれしかったのは訪問する人たちがギャラリーにいるよりはるかに長い時間をここで過ごし、子供と庭で遊びながら、知らない人たちと話したり、アーチストと酒を酌み交わしながら、アートを通して他者と触れ合ったことである。

ラミュゼdeケヤキ、過去のイベントや展覧会


神は細部に宿るように、アートはそこいらじゅうに潜んでいる

では、そのような活動を通して私は何がしたかったのか、何がゴールだったのか、と今振り返ると、アートってそこいらじゅうにあふれている。と気がつくことだったのだと思う。

「アート」と果物かごや親せきのおばさんが作ってくれたお人形が棚の上に並ぶ時、あなたの「アート」があっさり負けてしまうこともある。アーチストではない普通の人が作るものや作為のないかごなんかに感動することもいつだってある。そんな日々のアートを発見するのは人生の楽しいことのナンバーワンに入るかも知れない。


心は揺れるもの、価値だって揺れる

もうひとつ、いろんなシチュエーションで作品を見ているとわかることがある。いつも素晴らしい物ってないのだ。その日の自分の精神状態でも見え方はちがうし、手に取った時と棚に置いた時でも見え方は違う。人の心は絶えず揺れていて、我らが立っている大地もすごいスピードで回転している。だから絶対的な美も絶対に感動する絵もない。まあ、そういうことなのだ。(ゴッホの絵のようにかなりヒット率が高い作品もあるのだが。)
人間は記憶の動物で、感動していなくても、あ、あの絵はいい絵だよね、と自分で納得してしまう、でもその絵は昨日も今日も同じくらい素晴らしいかな?それは正直言って違うと思う。


人につきあうようにアートと付き合う

不確かな感受性、不確かな世界を十分わかった上で、それでもアートの中には自分の心臓をバッキューンと射抜いてしまう力のあるものや、泣いてしまう作品もある。でもしつこく言うが、ギャラリーでスーツを着た店員が進めるからそれがアートで、感動しないお前が馬鹿ということはないのだ。あなただけの感じ方でじっくり付き合うと作品は語りだす。そこまで心の旅ができてしまう、しかもギャラリーではない場を提案したかったのだ。


今、まさにこの国で起こっている大事な変化

3.11の後に、私たちもアーチストたちもあまりに大きな不幸の前で無力感に打ちひしがれた。ある人達は、絵筆を捨てて泥の掃除に三陸に行ったし、ボランティアに奔走した。災害を通して、アートは社会との関わりに向かって舵を切った。
本来アートとは社会的活動である。今までに人類の歴史の中でそれぞれの時代や土地に、言葉にも数字にも表わせないものがある。そんな真実のエッセンスをアーチストは表現する。社会にとって鏡のような大切な存在である。

そしてアートは生きながらえる。縄文時代から、いつだってどこだって、帳簿や、金銭は消えてなくなるしその時代のお金持ちや政治家の名前のなどは忘れられるけれど、文化と芸術はふるいにかけられて残る。その残った宝物から未来の人たちは時代の本質を知ろうとするのだ。だから、今、3.11のあと日本人が何を表現しようとしているのか、アートはショックをろ過した後に何を生み出してくるか。これはとても重要なことなのである。

多くの美術館やキューレーターはもちろんそんなことに気が付いているし、水戸芸術館で先日までやっていた「3.11とアーチスト進行形の記録」など、真剣に受け入れている。けれど、美術館では取り上げられないムーブメントをすくい取るギャラリーになってみたい。と今年になって思った。しかも若者や世界中の人たちが集まってくる渋谷の街に欲しいと思った。来年春、サラヴァ東京の入っているクロスロードビルの5階がその場所になる。


社会をデザインせよ

ラ・ケヤキの10年の経験があり、今、アーチストにかかわらず多くの人が社会を変えようと、よい一生を送るために価値観をどう変えるべきか、真剣に考えている状況を見ていると、頭に浮かぶのはヨーゼフ・ボイスの言葉である。
「クリエイトしている人はすべてアーチストである。すべての人間は芸術家たりえる。」
彼はヨーロッパの人間だから芸術というと至上のもの、という常識の中に住んでいた、我々の日本には絶対の神も至上の芸術などというコンセプトもたかが100年前までなかった。日本では「芸術家」はおだてる言葉ではない。優れた植木やに向かって「芸術家ですね」、などといったら「しゃらくせいやい!」と怒鳴られそうである。ま、それはまた違う議論として、今や呼び方に関わらず全ての人がクリエイティブになることができる。

音楽と映像においてウエブ上ですべての人間は表現し世界に向けて発表することができるようになった。アートでも今同じことがなされようとしている。お菓子作りでも盆栽でも木を植える作業でも、コミュニティ作りでも、表現者になれる。社会をデザインするってそういうことではないかしら。


ここでプチ復習:~ヨーゼフ・ボイスの言葉より~
・芸術とはすべての創造的な労働のことである。

● 私が試みていることは、観賞される芸術作品でなく、作品を通してなぜそれが成立しているか―それがいかに社会と関わりを持っているのか―そういう "なぜ" という問いを喚起することなのです。

● 私はどんな人間も芸術家であると言いましたが、それはどんな人間も画家になったり、あるいはモーツアルトのようになったすることを意味するのではありません。どんな人間も社会の変革のために働けるという意味です。


正解はなくても、提案はできる

ではそれぞれが自分の情熱に従いアート表現をするとどうなるのであろう。
答えはいつも多様で、価値観も同じく多様である。という事を容認できる、懐の深い社会の準備ができてくる。個人の価値観を尊重する社会。自分が他人と違うと表明できる人たちは他人の違いも大切にできる。私が提案する新しい場所は多様な価値観が出会い、社会との接点を求めぶつかり、勇気をもらうような場所、ファッションも写真もパフォーマンスも何でもあり。渋谷のような人間のごった煮の一つの具にそんなのがあってもおもしろいかもしれない。

潮田 バルー あつ子
アツコ・バルー
Atsuko Barouh

ラミュゼ主宰 / 通訳・翻訳家


ラミュゼ主宰。パリ第五大学人類学科卒業。フランスのインディレーベル『SARAVAH(サラヴァ)』の運営に1988年より関わる。2002年『L'amusée(ラミュゼ)』設立。滞在型イベントハウス『ラ・ケヤキ』(2003年)、ライブハウス『サラヴァ東京』(2011年)につづき、アートスペース『アツコバルー arts drinks talk』(2013年)をオープン。渋谷を拠点に文化の交流と発信に情熱を傾けています。

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