2012年10月26日 更新

グローバルとローカルはジェテーム、モア、ノンプリュの関係


渋谷のビルの地下
10月6日土曜日昼さがり
サラヴァ東京で、日本人の男女がアイリッシュダンスを踊っている、なんてアイルランドの田舎の人は想像しているでしょうか?不思議で楽しげな光景に、私は昔聞いたことのある鄙びたメロディや祭りのシーンをその時の枯草の匂いや太陽の光に舞うホコリ、人々の汗や笑い声まで一気に蘇って、それと澁谷サラヴァとのギャップになんだか空中を泳ぐような気分になった。irsh1.JPGのサムネイル画像

渋谷はお洒落だが、本家は、はっきり言って、汗臭い

私たち日仏混合家族のフランスの故郷は西フランスのヴァンデ県、地方で言えばブルターニュ。ブルターニュというのはブリテンのフランス語読みで、ここいら西フランスは昔グレートブリテン(イギリス)に対してプチブリテン、つまりイギリスの一部だった、そしてケルト文化圏、アイルランドとは近い関係なのだ。その田舎の家は観光地からは遠い内陸の農村地帯にあって、夏の盛りに麦を刈って、そのあとの野原でお祭りをする。この時に毎年登場する巨大な時代物の脱穀機や蒸留酒を作る銅製の機械がまるで舞台の背景の大道具のように並べられ、籠を編む人や、林檎やはちみつ、白いんげん、地酒、ソーセージなどお国の特産が並べられる、おらが村の自慢大会である。moisson.jpgのサムネイル画像老人たちはアコーデオンとバイオリンを持ち出して来てほし草の上に腰をかけると演奏を始める。若者たちは、普段はTシャツにジーンズ姿なのだがこの日は絵に出てくるような白いシャツに厚手の黒い布のズボンに木靴、女性はたっぷりしたロングスカートにエプロン白い頭巾、そしてぼってりした木靴でダンスをする。男女で手をつないで輪になって回って、カップルになってまた離れてまわって全員で決めの足踏み。ドスドスドン。というアイルランド出すとほぼ同じ農民の踊りである。白人だから日に焼けると真っ赤になる。農民たちは真っ赤な顔で、普段寡黙な連中がその時はお酒も入って、卑猥な冗談を飛ばし、女性をじろじろ見ながら大きな声で皆叫んでいる。女も男のひどく太っていて、(ひと昔前は農村では皆とても太っていてスーパーのレジなど横ばいにならないと通れない女性がたくさんいた)目も鼻も顔にのめり込んでいる感じではっきり言って美しいの反対のルックス。この時とばかり抱きついたりチューしたり、まあ、はじけること、しつこいこと。私は毎年の祭りの猥雑さが嫌で仕方がなかった。moisson2.jpg
そのめちゃローカルな土臭い祭りの音楽とダンスが、脂肪を抜かれ漂泊されて、フィルターでバイ菌を濃し取られたら、ケルトの叙情性のあるメロディとシンプルで愉快なダンスが残った。それは渋谷のサラヴァで繰り広げられていたその日のイベントだった。
私の感慨深さはそこにあった。そうか、ローカルがグローバルになれたのか。彼らの民謡は、漂白に耐えて残るものがあったのだ、泥の中に宝石がちゃんとはいっていたのだ。

ジュテーム、モアノンプリュ

「あいしてるわ、ぼくだって大嫌いさ。」といったのはフランスの作詞家、ゲンスブール。恋愛の不条理を表した言い得て妙なセリフ。
グローバルとローカルは犬猿の間、でも変態ぽい恋人でもある。だってゴローバルはローカルを馬鹿にして阻害しているくせにたえずそのうちに秘める宝を虎視眈々と狙い、商業的に行けると思えば遠慮なく奪う。でも奪われる方も奪われることによって生きながらえる可能性を与えられる。

まるで豚みたい。野生の豚はもしかしたら絶滅していたかも知れないけれどヒトの家畜となって食われる対象になったからこそ品種は変えられたが生き延びている。


ローカルとグローバル。この相反する動きが大きな振り子のように行ったり来たりするのがアートや文化の常。ローカルの財産を資源にグローバルは成長する。そしてローカルをつぶす。つぶされる前に姿を変えても生き延びるないといけない。それが文化の多様性が保たれるための条件かも
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ブルースだってヒップホップだってローカルだった、グローバルに絶えずローカルに資源を求めつつ、他のローカルをつぶしていく。
思えば近代の日本だって、へき地、日本のアートがいかにヨーロッパのグローバルの仲間にはいれるか、悩み苦悩していた歴史である。でも皮肉なことに悩んでいた彼ら、西洋画の安井曽太郎や、梅原はついに国境から出ることはなく、ローカルで終わり、そんなことを気にしない新しいジェネレーションの連中が世界に出て行った。
最近では宮古島の神歌を記録に留めようとした久保田真琴さんプロデュース大友功一監督の「スケッチオブミャーク」がどローカルにして素晴らしいパワーの籠った音楽を世界に見せた。
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これらの例が教えてくれるのは、迎合したはいけないんだということ、辺境は辺境のまま、どローカルを守ることで普遍性を勝ち取ることができる、ということ。たろえ脂抜きされてもしっかり残る骨組みがありそれらは世界の価値として共有できるということだ、アイリッシュダンスのように。


なぜ私がアイリッシュダンスに特に感動したか、おかしく思うかもしれない。日本人はタンゴも踊ればフラメンコもアフリカンダンスも、世界中の踊りを踊る人がいるのだから。
それは私はこのダンスが実際そのコンテクストの中で踊られているのを経験しているからだ。きっと、ロンドンのおしゃれなクラブで佐渡おけさが演奏されておしゃれなロンドンの若者が輪になっておけさを踊っていたら感じるような不思議な感覚を私は感じたのだ。

それがグローカルということなのでしょう。

潮田 バルー あつ子
アツコ・バルー
Atsuko Barouh

ラミュゼ主宰 / 通訳・翻訳家


ラミュゼ主宰。パリ第五大学人類学科卒業。フランスのインディレーベル『SARAVAH(サラヴァ)』の運営に1988年より関わる。2002年『L'amusée(ラミュゼ)』設立。滞在型イベントハウス『ラ・ケヤキ』(2003年)、ライブハウス『サラヴァ東京』(2011年)につづき、アートスペース『アツコバルー arts drinks talk』(2013年)をオープン。渋谷を拠点に文化の交流と発信に情熱を傾けています。

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