2012年5月 3日 更新

雨の連休はコラーゲンハイゴーマンの漫才で気分を一新

サイクリング、浜辺でデート、などなど夢に描いた連休がおじゃん!どうしてくれるんだ
くさくさしている自分もいやだ、しかし、地球上にはこんなちっぽけな事で悩んでみたいもんだよ。と思っている人たちが何億人もいるはず。

そうです。こんな日は都築響一さんの筆なる、コラーゲンハイゴーマンさんのめちゃくちゃパワフルな芸人人生のインタビューを読みたいです。

アメニモマケズ 笑いをふりまき続けるすごい人です

以下、Roadsiders'weekly から抜粋

interview

コラアゲンはいごうまんの夜
お伝えしているように来週、5月11日金曜日に渋谷サラヴァ東京にて、コラアゲンはいごうまんとのトーク・セッションが開催されます。そのウォーミングアップ企画として、今回はこのあまりにユニークなコメディアンの、激しくも優しい、楽しくて哀しい生きざまをフィーチャーしてみます。

先日再放送されたフジテレビの『ザ・ノンフィクション 年収100万円芸人物語』(オリジナルは2007年放映)を、ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。今回はこれまでメディアで取り上げられたなかで、もっとも詳細なインタビューであり、彼が暮らす阿佐ヶ谷のアパートも初公開。コラアゲンのお笑い世界になじみの方も、名前すら聞いたことなかったという方も、ぜひお読みいただいて、youtubeなどにたくさんアップされているパフォーマンスも見ていただいて、そしてぜひぜひ11日には会場で、ナマの熱演をご覧いただきたいと願っています。よろしくお願いします!

このメルマガで、お笑いを取り上げることはほとんどありません。つまり、僕自身はそれほど現在のお笑いシーンに興味がないのですが、久しぶりに、このひとはすごい! と脱帽する才能にめぐりあいました。それが「コラアゲンはいごうまん」という、奇妙な芸名のコメディアンです。

ご存じの方もいると思いますが、コラアゲンはワハハ本舗所属の「体験型ドキュメンタリー芸人」です。本舗主宰の喰始(たべ・はじめ)さんから「新興宗教の本部に潜り込んでこい」とか、「SM女王様の奴隷入試を受けてこい」とか、「武闘派ヤクザの事務所に1ヶ月間体験入所してこい」とか、メチャクチャな課題をもらって、それをそのまま実行。そこで得た体験を舞台上で、たったひとりで語り尽くすという、まさにカラダを張った芸です。

体験の中味があまりに濃いために、1本のネタの所要時間が30分~2時間! そのためテレビにはほぼ出演不可能。ライブでしか味わえないタイプの貴重な芸風だけに、とうぜん高額ギャラとは無縁の生活を送ってきました。

いまだに阿佐ヶ谷の風呂なし六畳ひと間のアパートに住み、がんばりつづける、1969年生まれ42歳のピン芸人。30秒で笑いを取らなければならない、そしてそれ以上の芸は必要とされないテレビの世界に背を向け、たったひとりで地方の居酒屋(それも営業中!)や美容院、個人宅までを舞台に、ときには数人の観客のために、汗みどろで語りつづける――こういう「語り部」が、こんなふうにいまの時代を生きていることが、僕には奇跡としか思えませんでした。

コラアゲンはいままで5回にわたって、丸一年かけて全国を一周しながら、現地で探したネタを現地で披露し、それで次の目的地までの旅費を稼ぐという荒行を続けてきました。現地に入り、ネタになりそうな話を聞き回り、それを自分で検証に行き、その夜に披露するという、たった一日ごとの真剣勝負です。いまは6周目の全国ツアーのまっただなかにありますが、まずは本人のブログ「僕の細道」にある、今年の1月から5月までの日程を見てください。

1/28(土)  滋賀  ファブリカ村 滋賀県東近江市佐野町
1/29(日)  兵庫  Live Spotオールディーズ 兵庫県神戸市灘区王子町
2/1(水)  大阪  TRASH 大阪府大阪市北区曽根崎
2/3(金)  京都  ひいらぎ眼科2Fイベントスペース 京都市北区上賀茂松本町
2/12(日)  山口  Cafe de DADA 山口市今井町
2/18(土)  岡山  OMOSIRO-7
2/19(日)  広島  広島ライブ楽座 広島市中区立町
2/25(土)  大阪  humarythme 01
3/24(土)  愛知  岩倉・千村動物病院
3/25(日)  愛知  珈琲 自然食品 ハーブ 大きなきりかぶ 岐阜県可児市土田
3/25(日)  愛知  杉ちゃん地元還元企画 今池酒宴会 改メ 大名古屋酒宴会vol.3
4/1(日)  大阪  シアターセブン 1st ANNIVERSARY公演
4/6(金)  静岡  髪工房 花無心 静岡県焼津市西小川
4/7(土)  焼津  木形屋洋装店
4/20(金)  富山  都市伝説バトル テレンス・リー&コラアゲンはいごうまんがやってくる!!
4/21(土)  東京  カタログハウスセミナー
4/22(日)  静岡  焼津市文化会館・3F和室 静岡県焼津市三ケ名
4/24(火)  東京  PLAYPARK2012 ~日本短編舞台フェス~
4/25(水)  東京  『コラアゲンはいごうまん』初のDVD撮り下ろしライブ
4/27(金)  大阪  TRASH 大阪府大阪市北区曽根崎
5/11(金)  東京  コラアゲンはいごうまん×都築響一 トーク&ライブ
5/12(土)  鳥取  BAR異邦人 鳥取県米子市朝日町
5/13(日)  島根  PARTY STYLE SPACE FUN 島根県松江市朝日町
5/14(月)  鳥取  ヤキトリダイニングえがな 鳥取県米子市角盤町
5/15(火)  鳥取  クラブマリエ 鳥取県米子市朝日町
5/16(水)  鳥取  海鮮れすとらん四季庵 鳥取県米子市両三柳
5/17(木)  鳥取  Bis Cotto 鳥取県米子市道笑町
5/26(土)  熊本  equipment:FLOOR 熊本県熊本市中央区南坪井町
5/27(日)  熊本  バトルボックス 熊本県熊本市中央区上通町


なんとかホールとか、なんとか演芸場といった、本来漫才が行われるような場所は、見事にひとつもありません。居酒屋、スナック、美容院、動物病院・・・。こういう場所に、彼は大きなスーツケースを引きずってひとりで赴き、汗みどろになって、最前列の客には盛大に唾を飛ばしながら(コアなファンはそれを「聖水」と呼び、よけてはいけないものとされているとか)、たった数十人の、ときにはそれにも満たないお客さんのために熱演する日々です。

5周目の全国ツアーの成果が結集された「作品リスト」。その足取りもさることながら、ネタのバラエティにも瞠目
コラアゲンを呼んでくれる側も、シロウトのファンばかり。そういうひとが友達を集めて、公演を企画してくれて、でも東京からの交通費なんて出ないから、わずかなギャラとオヒネリで、赤字にならないようにがんばるしかない。そういう生き方を、コラアゲンは以前、こんな文章にしていました。
私が全国ツアーにこだわり続ける理由は2つあります!!
1つは私がやっている"体験ノンフィクション漫談"の性質にあります。
では、その"体験ノンフィクション漫談"とは?
ワハハ本舗の社長であり演出家でもある喰始から毎回与えられるテーマを、実際に私が体験し、そこで起こったドラマ、感じた想いを笑いを織り交ぜて語るという、つまり実録トークです。

例えば 
テーマ"宗教"の時は、宗教団体の集会に潜入
テーマ"インド"の時は、インドを2ヶ月間放浪
テーマ"やくざ"の時は、某任侠団体事務所に1ヶ月間住み込み

これら命がけの実録トークは長期取材によるものが多いため、一発ギャグや小話というより、1冊の本、1本の映画に近いと思います。
しかし、この本質は瞬間芸やキャラ重視の今のテレビでは取り上げてくれることはまずありません。正直それをもどかしく思う時期もありました。でも全国を4周回って思ったんです。
やっぱり僕はこの道が大好きです。
どれ程時間がかかっても、どれ程骨が折れるとしても、僕は自分の語りたいことを語っていきたいのです。
そして、最後に残るのは絶対このアナログな生き様なんだと!!
この強い信念の元、今年も旅に出たいんです。

もう一つは、全国ツアーを主催して下さるほとんどの方が「一般の方」というところです。主婦の方や、お店のマスターや、サラリーマンの方や・・・そんな皆さんが損得勘定ではない想いをもって自分の家や店や会社でライブをやらせて下さってるんです。
大都市から大都市、大ホールから大ホールへと移動するツアーとは違い、規模は小さいかもしれません。でも、ここにしかない温もりがあるんです。
こんな全国ツアーができることを僕は誇りに思います。
人生の財産とも言うべきこのツアーを、このツアーだからこそ僕は生涯続けたいんです。
前に演歌歌手たちを取材していた時期があって、そのときに秋山涼子さんという女性歌手と出会いました。彼女は1988(昭和63)年にデビューして以来、マネージャー兼作詞作曲家兼運転手をつとめるひとと二人三脚で、ワンボックス車で日本全国を走り回って、もう24年間になります。呼ばれればどこへでも駆けつけて、夜に最後のキャンペーンが終わったら高速道路に乗って、シャワー設備を備えたサービスエリアで仮眠を取り、朝方にまた走り出し、昼までには次のキャンペーン地に到着、着物に着替えて、また歌う毎日。

東京に帰れるのは月に1日か2日だけ。地元の仕事と雑用をこなしたら、また車に飛び乗って、地方へ向かう。そうして気がつけば24年という時間がたち、走行距離何十万キロで乗りつぶしたワンボックスの「涼子号」が、もう7台! その涼子さんがしみじみ言うには、「大きい舞台にはなかなか呼ばれないんですけど、大きなホールで300人とかを前に1回やるのも、小さなお店で30人を相手にして(それだけ入れる店も少ないですけど)、毎日3、4軒やるのも、同じくらいたくさんの人に会えるんじゃないかと思って、ずっとがんばってるんです」。

コラアゲンはいごうまんも、最近は「人志松本のすべらない話」や@ダウンタウンDX」など、メジャーなお笑い番組に呼ばれる機会が、少しずつ増えてきました。でも、正直言って、たった数分の持ち時間では熱意が空回りするばかりで、真価はとうてい伝わりません。やっぱり彼も、1万人の視聴者に1分笑ってもらうよりも、10人のファンに1時間笑ってもらう、それを100回、1000回つづけるほうを選ぶしかなかった、宿命のロードサイド・アーティストなのでしょうか。

森田嘉宏、生誕3ヶ月目
コラアゲンはいごうまん=本名・森田嘉宏(よしひろ)、1969(昭和44)年9月29日生まれ、現在42歳。生まれ育ったのは観光地として名高い京都嵐山だった。
嵐山って、きれいなとこですよねえ。でも、物心つくころからタレントショップがたくさんできるようになって。それでずいぶん変わっちゃいましたね。

父親はトラック運転手です。もともとは父の兄が四条大宮でやってた中華料理屋で働いてまして。でも折り合いが悪くなって、僕が中1ぐらいのときに辞めてしまって、「森田運送」という運送屋をひとりで始めたんです。

父、母、兄と。1歳4ヶ月目


庭で遊ぶ兄弟、1歳6ヶ月
嘉宏少年が育った時代は、ドリフ全盛期から漫才ブームにつながるお笑い黄金期。やっぱり小さいころからお笑いが大好きで、みんなを笑わせるのがいちばん気持ちよかったという。
幼稚園の年長組あたりから、ドリフでしたねえ。とにかく志村けんに憧れて、まあコケるぐらいしかできないんですが、それでもみんなが笑ってくれるとうれしくて。で、小学校3,4年生ぐらいまでは吉本新喜劇ですが、5年ぐらいになると漫才ブームが来るんです。B&B、伸助・竜介・・・、すごかったですよねえ。

満2歳、笑顔が可愛らしい
お楽しみ会ではジュリーの真似とかもやってたんですが、それまでは歌うことよりも、笑わすほうが難しいと思ってたんですよね。だって歌だったら、好きだっていうだけで歌えるし、みんないっしょに歌ってくれたりもするけど、お笑いだと聞くほうは受け身、聞くだけでしょ。それを笑わすのは大変かと思ってたんです。でも漫才ブームで、すっかりやる気になって、5年ぐらいのときに山口くんという同級生とコンビを組んで、漫才やり始めたんです。ツービートの本とか、なぞなぞの本を読んでネタ仕入れたりして。

小学校1年生、初登校の前に
そんふうに学校ではひょうきんな人気者だった嘉宏くんだが、実はこころにどうしようもない闇を抱えていた。
僕、小学校の6年間、どんだけひもといても、友達と遊んだ記憶がないんです。これは父のお兄さんの子供が優等生だったことへの意地みたいなもんだったと思うんですが、オトンは自分と兄貴を、本気で京大に行かせようとしてたんですよ。「おまえらの将来のためや」とか言ってたましたが。

小学校1~3年までは、学校が終わって家に帰ってくると、オカンが教師役で算数国語、日替わりで教えて。土日だけ原則休みで。でも4年になるとレベル的に無理なので、こんどは近所の進学塾に通わされて。とにかく学校から帰ったら、まっすぐ家から学習塾ですから。玄関にカバンが置いてあって、学校から帰るとカバンを持ちかえて、塾に行くだけ。夕食の弁当持たされて、夜の9時10時まで。そんなのは当時、学年にひとりいるかいないかでした。

お気に入りだったタイガース・パジャマを着て
オトンも極端な性格だったんで、「学校には行かなくてもいい、テストも白紙の答案でいい、塾に行って、塾のテストでいい成績取ってればいい」とか言ってました。3年ぐらいまではまあ、勉強といってもオカンとだったし、それはまだよかったけど、塾になったら毎日テスト、毎日席順が替わるという・・・アホ組、賢こ組と分かれるみたいな。
そういう歪んだ勉強漬けの日々と過保護な人間関係が、少年に与えた影響はけっして小さなものではなかったろう。
ぜんぜん笑わない子供でしたね。そういう生活が死ぬほどイヤだったですけど、不良になる勇気もない。喧嘩弱いし。暴走族がまだ当時はけっこう元気で、バイクに乗ってタコ踊り、みたいのにものすごく憧れるんですが、それができずに、せいぜいボンドやってみるくらいで。

だから僕、人間関係がずっとうまく築けなかったんです。相手のイヤな面が見えると、「ああ、もういい」って、切ってしまう。イヤなところもあるけどうまくやっていく、喧嘩もするけど仲直り、というのが友達だったり夫婦だったりするでしょ、そういうのができないまま、ずーっと来たんですよ。

小学校の相方だった山口君とも、やってるうちに他の子のほうがいいと思ったら、さっと関係を切ってしまいましたし、中学校の時にも同じことがあって、もっとひどい裏切り方をしてるんです。で、オトナになってから、8年ぐらい前のことですが、その友達が「結婚式の司会をやってくれ」って連絡してきたんですね。でもこっちはみんなにめちゃめちゃ不信感をずっと持ってて・・・「俺もみんなを裏切ったが、みんなも俺を裏切ったよな」みたいな。実家に電話がかかってきても、ぜったい連絡先教えるなって言ってたぐらい。で、俺が吉本に行ったことはみんな知ってる、でもまだ売れてない。それで、仕事入ってるってウソつくんです。「マジで? マジで?」って何回も頼まれたんですけど・・・。

そういうふうにずーっと来ましたから、2年ぐらい前にも、すごく忙しい時期が半年ぐらい続いたあと、1週間だけぽっと空いて、こうして遊ぼう、あそこ行こうとか思ったんですけど、だれも誘う相手がいないんですよ! 携帯には500件、フルに連絡先が入ってるのに、ぜんぶ仕事関係。40歳にして友達がいない・・しょうがないから、これをネタにしようと、自分をえぐっていったんですね。

そしたらあのときの裏切りが、40歳になるまでずっと影を落としてるなと思って。それで最終的に会いに行って、謝ったんです。あんときはこういうわけで、ほんとゴメンって。そしたら彼のほうも、前に森田君をどうしても見てみたいからと、なんばグランド花月まで観に行ったことがあったって言うんです。そのあと受付に「森田君の友達なんで」って楽屋に挨拶に行きたかったけど、「友達と言っていいのかな-」って悩んだ末に、声をかけずに帰ったって。そんな子供だったんでしょうねえ。
嘉宏少年のお兄さんは、両親の期待どおり京都の名門・洛西中学に受かるが、嘉宏君のほうは立命館を受けるも不合格、高槻中学に進学する。ご両親、特にお父さんの期待を裏切ることになって、家庭の居心地はますます悪くなっていく。
中学校のときはもう、勉強するのが子供の仕事や、ぐらいに思ってました。実は3歳のころに腎臓の病気をやりまして、激しいスポーツはできなかったんですが、ようやく完治したということで、中2のときに初めて部活をやれることになって、体操部に入るんですね。少年隊がバック宙をやってるのを見て、憧れたのがきっかけです。

なりたての中学1年生
で、それまで成績はクラスでも1位、2位で、「このまま行ったら京大、同志社大だ」とオトンも喜んでたんですけど、部活と両立ができなくて、いちど成績がドッと落ちたんです。そしたらオヤジが勝手に、俺に黙って学校に退部届を出してたんです、成績落ちたから止めさせますって! ある日、部室に行ったら「あれ、おまえ退部してることになってるよ・・」みたいな。でも、そういうことすら学校ではネタにして、笑いを取ってたんですけどね。
そんな理不尽な日々の、小さな慰めになったのがお笑いと、もうひとつ音楽だった。
とにかく暗~~くなっていったんですが、そのころバンドをやり始めて。中高一貫教育なので、高校のひとたちがピストルズやったりしてるのを見て、かっこいいなーって。なにせ進学校だったので、そこで「不良」と言われるのは、バンドやってるやつぐらいだったんですね(笑)。

それでバンド始めて・・。ピストルズ、ブライアン・アダムス、爆風スランプ・・なんでもいいんで、できる曲からやってたって感じです。俺はヴォーカル担当。やっぱり目立ちたかったし、格好つけたかったんで。

高校入学直前のころ
学校が好きというわけではないけれど、家には帰りたくないから、学校にいるほうがまだまし。家に帰れば笑顔どころか、だれともひと言もしゃべらない日が続く、という状態の中でなんとかバランスを保っていた嘉宏君に、しかし高校1年生のある日、とんでもない事件が降りかかる。
高1のときなんですけど、オトンが包丁を振り回して、家族全員を殺そうとするっていう事件が勃発するんです。兄が受験に失敗して2浪するんですが、そこでちょこっとサボってるのが判明して、もともと酒乱気味だったこともあって、包丁振り回して「俺がこんなにやってるのに・・みんな殺したる!」って。で、俺たち兄弟をかばったオカンが、包丁で手を切って、失神しちゃって。そのあとしばらく失語症になるんですが、パトカー呼ぼうとしたら、オカンが消えゆく意識の中で「パトカー呼んだら騒ぎになるから、救急車にして・・」と言いながら気を失うという。でも、それも翌日には学校でネタにしてましたから(笑)。考えてみればそのころから、自分の辛いことをネタにしてきたのかもしれないですね。

それで、うちの家族の不思議なところは、その翌日から、まったくそのことに触れないんです。家族全員、あれはなかったことにして・・。それからもオトンは何回か、酒飲むと荒れてましたね。でもそのオトンも、実は幼少期にDVを経験してたらしくて・・。10年前にインドに体験取材に行くときのことですが、その直前にオトンが肺がんで末期になって、インドから帰ってきてからじゃ間に合わない、行く前にいちどでいいから会って、ってオカンに言われたんですね。

もう、オトンのことはずーっと大っきらいだったんですが、そんなこと言ってられないので年末に家に帰って、言おうかどうしようかずいぶん悩んだ挙げ句、話したんです――「オトン、ずーっといままで大嫌いだったけど、それ、俺はもうチャラにするわ。そのかわり、残念やけどもうすぐ天国行ったら、暴力ふるってた自分の親も許さなあかんで。そうしないとどんどん悪いのが続いてくだけだから」って。そしたらオトンも、もう鎮痛剤でぼーっとしてるんですが、「そうか、オレもめちゃくちゃだったから、そんなこともあったかもしれないな。よくわかった」って言ってくれて。

パンク・ファッションで正装して
高校を卒業する時期になれば、待っているのは大学受験。しかし成績が下がるいっぽうの嘉宏少年には、オトンの望む京大どころか、「オトンにしてみればありえない二流大学」ですら合格は覚束ないし・・と悩んでいたところに、オカンがすっと背中を押してくれた――「お笑い好きなんやろ、そしたら吉本行ったらええやん、行きたいんやろ」と。
オカンが言ってくれたんで、吉本の学校に入るんですね(NSC=吉本綜合芸能学院)。1988(昭和63)年の5月に入学して。7期生でした。同期には「雨上がり決死隊」の宮迫(博之)やホトちゃん(蛍原徹)、関西ではすごく人気のあるなるみちゃんとかがいまして。

NSCは1年間で、その当時200人ぐらいいたんですが、入ってみたらもう、みんなうまくて歯が立たなかったですね。最下位ではないんですけど、トップとは雲泥の差で。そこでも悪い性格が出て、やっぱり相方をどんどん変えていくんです。我慢をしなかったんですねえ。

それで学校を卒業するころには、同期の5番手ぐらいにはつけたんですけど、それだけでは生き残れないと思って。ちょうどオール巨人さんに弟子がいなかったと聞いたんで、弟子にしてもらったんです。そのときはホトちゃんとコンビを組んでいたんですけど、ホトちゃんより自分のが年上だし、誘っても来ないだろうなと思いつつも、「弟子に行こう」とかいちおう声をかけて、やっぱり「俺はやめとくわ」って断られたんで、自分が行ったという・・・ずる賢い計算ですよね。

で、そのあとホトちゃんは宮迫と「雨上がり決死隊」を結成して、そしたらまたたくまに売れていくんです。こっちはなんばグランド花月で、巨人さんの弟子として靴とか磨いてるときに、彼らは仕事で来るわけですよ。舞台出演とか、テレビの収録とかで。あれはほんとに辛酸をなめた時期でしたね・・。
「仕事」としか思えなかった勉強の日々にようやく終わりを告げ、いちばん好きなお笑いの道に入ったとたん、またも芸の世界の厳しい洗礼を浴びる日々。運命の神様はどこまでも森田嘉宏に厳しい顔しか見せようとしなかった。
巨人さんは・・それはもう厳しかったですよ。挨拶するときは両足をちゃんと揃えろ、みたいなことから始まって、どんな些細なことでもミスがあったら坊主にされる。2年間で、ボウズ17回ですから、もう、ふつうに散髪のペースですよね(笑)。でも坊主にした直後はまた坊主にできないですから、けっきょく借金3回ぐらい残ってます。自宅謹慎も3、4回、破門が2回ありますから。最終的には2年の年季があと1週間で明けるというときに、よくがんばったなってねぎらわれて、その3日後に師匠のスーツを忘れてまた破門。だから俺、吉本には「破門デビュー」なんです(笑)。
2年間の年季が明けて、「破門」ながらも一本立ち、森田嘉宏は同期の芸人とコンビを組んで、新進お笑いタレントとしてデビューを飾る。
同期のやつとコンビを組むことになって、「電光石火」という名前でデビューしました。1年半か2年ぐらいやってましたね。そのうちテレビにもちょこっと出れるようになってきて。

ところがその相方が、ネタを考えないし、舌足らずなんですよ。「なんでやねん!」がうまく言えない(笑)。で、こいつはダメだと思って、どんどん怒る。そうすると相手はどんどん萎縮するばかりで。考えたら、父親とおんなじことしてるんですね。それで舞台でも「ミスすんなよ」って睨みつけてますから、相手は怯えちゃって・・客も笑うわけないですよね。それでコンビ解消。

で、3組目のコンビになるんです。吉本では「コンビは3組まで」という暗黙の了解があって。そんなしょっちゅう相方替えてるようじゃあ、信頼できないってことで。学校時代から数えれば俺も3回目ですから、これが最後のチャンスやなって思いました。それで、いままで同期や後輩とばっかりだったのが、初めて先輩と組んだんです。

そしたらいきなり、NHKお笑いコンクールっていう名門の番組で、準優勝するんです。これはみんなが通過する登竜門で、吉本入学から7~8年目かな、25歳だったんで、年齢的には遅いほうなんですが。でもまあ、そこでようやく第一関門通過! となったわけです。コンビの名前は「I少年D」というのでした。最初は「ID少年」だったんですが、師匠に「ID少年じゃあ、すっと流れるな」って、語順をかえられて。

そこで遅ればせながら、ようやく追撃態勢が整ったぞと思ったときに、相方が借金で行方不明になっちゃうんです! お金にすごくルーズなひとで、いろんなとこで借金重ねたあげくに。それで俺も、「あ、詰んだな」と・・・。これは神様から「やめろ」と言われてるんだなと思ったんです。こんどこそ、というときに、これだけひどいことされたら。
ずっと未来が見えないままなら、まだいい。ようやく前が明るく開けた瞬間に、扉が無常に閉ざされる。そのショックは計り知れなかったろう。しかし失意のどん底にいる彼に、救いの手は意外なところから差し伸べられた。
神様もあんまりやろと、そこでもうお笑いをやめようと思うんですが、当時つきあってた2コ年上の、OLやってた彼女がいまして。その子が止めてくれたんです。自分の結婚相手だと考えたら、芸人やめてくれたほうが堅実でいいだろうけど、あんたの人生としてそれでいいのかと。芸人になりたくて始めた人生を、ひとの手で幕を下ろされていいのかと。たとえこんな状態で足洗って結婚したとしても、こころから笑えないだろうし、もうお笑い番組も見れないだろうし、なんかあったときに「おまえのせいでオレは芸人やめたんや」って手を上げるだろうって。どんぴしゃですよね! 

それで彼女が言うには、コンビがあかんやったら、ひとりでやればええやんと。それでもあかんかったら、納得してやめられるやろう。そしたら結婚しよ、と。それでぎゅーっと抱きしめてもらって・・。でも俺は最悪ですから、その子に借りたお金で、出会い系サイトやったりして。そのひとにずいぶん支えてもらったのに。それが明るみに出て、クビにされました(笑)。
漫才師にとって、コンビではなくピンで舞台に立つというのは、想像を絶する緊張感なのだという。突っ込んだり、ぼけてくれる相方もいない。たったひとり、聴衆と向かいあう瞬間。そんなピン芸人としての活動を、森田嘉宏は4年間続けることになった。
ひとりで舞台に立つのは、ほんとに怖いことなんです。でも、やってるうちに少しずつ知られるようになって、ライブで独演会をやれば中高生が200人ぐらいは来てくれてたし、神戸のラジオで深夜番組のレギュラーがあって(『真夜なかん!かん! 過激団』ラジオ関西)、これでなんとか認めてもらえるかと思ったんですが、4年間で番組も終わって、吉本には認められないまま「卒業」、まあ実質的にはリストラですよね。
同期の成功組からはずっと遅れたまま、それでも苦しみながら認められかけ、そこでまたもハシゴを外されて、29歳。それはもう、失うものはなにもないという心境だったろう。
当時は精神的にもボロボロになりまして・・。次にやることも決まってないし。それなら大阪よりは、東京のほうが事務所も多いし、まだ夢があると思って東京に出るんです。30歳からの何年間かを新天地で闘おうと。「俺は会社の目には止まらなかったけど、才能はあるんや」と思い込んでましたから。
1999(平成11)年、森田嘉宏は単身、上京する。
吉本は辞めて来たんですけど、東京に伝手があったわけではぜんぜんなくて。だからオーディションからオーディションへという生活でした。ずーっとバイトしながら。でも、ぜんぜんダメでしたね。どこにも引っかからなくて。それが約2年間です。最後のほうはもう、なかば諦めかけてましたね。とはいえ別の人生といっても・・という感じで。ネタも新作を考えるでなし、大阪のネタをそのままやってる状態で。それでもメンツやプライドだけは、異常に高かったです。なんと言っても俺は吉本で10年間やってたし・・スタメンじゃなくても、ジャイアンツの2軍みたいなもんやと。
そうやって己のプライドにがんじがらめになりながら、空振りを繰りかえしたあげく、最後にたどりついた場所、それが人気劇団のワハハ本舗だった。ただ、その出会いはけっして幸福なものでも、和やかのものでもなかったという。
俺は劇団っていうのが、大嫌いだったんですよ。師弟関係はまだいいけど、劇団の主宰っていう絶対的な存在が、すごくイヤで。だからワハハも、自分が行きたくて行ったわけではないんです。知り合いに誘われて、行ってみただけで。自分だけだったら、ぜったいに行かなかったと思います。

それでワハハに行きだして、2ヶ月にいちど事務所のライブのたびにオーディションを受けて、舞台に参加することになるんですね。こっちはいちおう経験は10年間積んでるんで、即戦力にはなるから受かるんですけど、そのたびに喰始と揉めるんです。「おまえがおもしろいとはまったく思えない」と。「こうつっこめば、こう笑い取れますよね」という計算しか伝わってこないと。俺の中にあったプライドが、ものすごく気に入らなかったんですね。でも、その言葉にこっちもこころを閉ざしてて、それが1年半ぐらい続いたんです。
劇団の主宰である喰始の前で、自分では自信のある芸を披露し、まったくおもしろくないと、ボロカスにけなされる。そんな不毛なせめぎ合いが続いた末に、ついに森田嘉宏はネタではなく、自分の身に起きた、これまでの不幸の数々を語り始めた。オトンが包丁を振り回したこと、捨てた相方が大成功したこと・・・語りつづけるうちに涙声になっていく彼に、しかし喰始は「それ、おもしろいじゃないですか!」と大笑いしながら、初めて食いついてきた。「あなたはネタを考える能力はないんだから、これからいろんな体験を自分でしてみて、それを話にするようにしたらいい」と。「ドキュメンタリー漫談・コラアゲンはいごうまん」が誕生した瞬間だった。2001(平成13)年、32歳。上京してからすでに2年がたっていた。

それから現在まで10年間、「振り返っても、あっという間です」という、だれも試みたことのなかった「ドキュメンタリー漫談」というスタイルを切り開いてきた彼は回想する。「この2年ほどです、バイトしなくてよくなったのは」と言うように、ずーっと中野坂上のレンタルビデオ屋でアルバイトしながら、かつかつの暮らしの中でとんでもない体験を繰りかえし、芸を磨く日々。10年間住んできた高円寺の四畳半から、阿佐ヶ谷の六畳に移って3年目だが、いまも風呂はついていない。テレビやラジオのレギュラーがあるわけではないし、イベントなどの機会に呼ばれてちょこっと笑わす、みたいな営業も芸の性質上不可能だから、収入の確保も大変だろう。

阿佐ヶ谷駅から徒歩10分、昔ながらの六畳ひと間の城。隣のアパートがぎりぎりに建っているため、1階だが陽はまったく入らない


資料の山が畳を埋める
「ぜんぜん不便じゃないし、俺はこれで居心地いいんですよ」というアパートは、昔ながらの玄関で靴を脱いで、各部屋に持って入るスタイル。部屋は大きなスーツケースやネタの資料、脱ぎ散らかした洋服、DVDが万年床をぐるっと取り巻き、たしかにある意味、居心地よさそう・・いろんなことを気にしなければ。

顔を洗ったり、歯を磨いたりはできる台所
洗面器にはお風呂セット
コラアゲンはいごうまんは、芸人にはめずらしく酒を飲まない。東京にいて、仕事じゃないときはなにして遊んでるんですかと聞いたら、一瞬答えに詰まったあと、「なにしてるんだろう・・俺、ほんとに無趣味なんですよ」と答えてくれた。

「寝てるか、食べるか、AV見るか、風俗行くか」しか思いつかないという彼が、いま好きなのは「鶯谷あたりの熟女風俗」。枕元にも熟女AV界の大スター・翔田千里のDVDがどっちゃり積んであった。
いや、昔は若い子が好きだったんですけど、体験取材をするうちに、奥行きが気になってきて。おんなのからだの奥に、いろんなストーリー、背景を想像するじゃないですか。このひと、どうしてこんなことしてるんだろうって・・それで勃起!みたいな(笑)。そうやって馴染みになった鶯谷のデリヘル嬢で、ライブに来てくれるひともいるんですよ。「あなたにはシンパシーを感じます」って手紙をもらったことも、いちどあったし(笑)。

枕元にはぼろぼろのネタ帳と、お気に入りの熟女AVコレクション。使い込んだ枕の下には電話帳が・・「これ、高さ調節です」


特に憧れてるのは翔田千里さん! これ以外に、押し入れの中にもたくさんあるんです
自分の不幸をネタに笑わせる芸人は、たくさんいる。でも、コラアゲンはいごうまんのようにリアルで、切実で、痛みを伴う笑いは、テレビでも舞台でも、ほとんど経験したことがない。それは、少なくとも僕にとってはほとんど「自傷行為」のように思えるときすらある。

閉ざしたこころを、うまく人間関係を築けない自分のかたくなで脆い精神を、なんとか外界から守りたくて、自分を傷つける。それはカッターナイフで腕を切り刻むことだけじゃない。わざと汚い言葉を聴衆に浴びせつづけて、結局は自分を壊してしまったレニー・ブルースや、男女混合プロレスのリングにまで立ってブーイングを浴びたアンディ・カウフマンのように、偉大なコメディアンが抱えてきたこころの傷のことを、開くことのない黒い箱のことを、僕は思う。

観客に孤独な素顔を見せたがるのは二流の道化師だろうが、コラアゲンはいごうまんが向かっているのは、もしかしたら一流に昇る王道ではなくて、すべてをさらけ出しながらの、二流の果てにあるどこか、遠い未踏の地に続く細道なのかもしれない。

コラアゲンはいごうまん × 都築響一 トーク&ライブ
5月11日(金) 19:00 open 20:00 start @サラヴァ東京・渋谷
Adv. 3000円(1drink付) Door. 3500円(1drink付)
サラヴァ東京 予約ページ
コラアゲンはいごうまんブログ「僕の細道」

潮田 バルー あつ子
アツコ・バルー
Atsuko Barouh

ラミュゼ主宰 / 通訳・翻訳家


ラミュゼ主宰。パリ第五大学人類学科卒業。フランスのインディレーベル『SARAVAH(サラヴァ)』の運営に1988年より関わる。2002年『L'amusée(ラミュゼ)』設立。滞在型イベントハウス『ラ・ケヤキ』(2003年)、ライブハウス『サラヴァ東京』(2011年)につづき、アートスペース『アツコバルー arts drinks talk』(2013年)をオープン。渋谷を拠点に文化の交流と発信に情熱を傾けています。

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