アツコ・バルーのブログ

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2013年4月17日 更新

新しい都市の風景、新スケープ展

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                              Ryuji Fujimura

Fest*LAB! vol.2

6月 28 日のグランドオープンに向けて、「Fest*LAB !(祝祭的な実験室)」と名づけ、さまざまな分野のクリエーターやアーティストたちに空間を提供し、使い方の実験も含め展示やイベントを展開していきます。

展覧会名:新スケープ 建築展
開催期間:2013年4月17日(水)~4月28日(日)
オープン時間:14:00-23:00/4月21日&28日(日)は12:00-18:00
閉館日:月・火
入場料:1ドリンク (500円) *レセプションは入場無料

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                  Naruse・Inokuma Architect

「アツコバルー arts drinks talk」は、9枚の壁が自在に動き折り曲がり、刻々変化する窓からの光とともに常に新しい風景(新スケープ)を作り出すアートスペースです。空間を手がけた建築家・中央アーキの呼びかけで、設計という枠にとらわれず都市に対するアプローチを作り出している同世代の建築家たちが集まりました。それぞれによる「新スケープ」をお楽しみください。IMG_20130417_172708.jpg

                         Chuou Archi


中央アーキさんとの出会いはアーチストの花代です。彼女が常々若くてセンスの良い建築家を知っているから会ってみて、と言ってくれていたのです。私の注文は動く壁で空間の表情を作ってほしいということでした。注文に対して期待以上の楽しい有機的なアイデアをくれました。彼らの友人たちの若い建築家たちも年の新しい風景を提案しているのがとても新鮮で面白いです、ぜひ見に来てください。

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                         オンデザイン

出展者:オンデザイン、垣内光司、成瀬猪熊設計事務所、中央アーキ、藤村龍至、メジロスタジオ


トークイベント
4月20日(土)17:00 - 18:00 出展者によるトーク
4月27日(土)18:00 - 20:00 坂下加代子(中央アーキ)、藤村龍至

レセプション
4月20日(土)19:00 - 21:00


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アツコバルー arts drinks talk
東京都渋谷区松濤1丁目29−1 渋谷クロスロードビル 5F
TEL:03-6427-8048
email: ab@l-amusee.com
地図:http://goo.gl/maps/h99LO

2013年4月 3日 更新

「海苔に巻かれた寿司宇宙」が渋谷でも

たまちゃんの巻き寿司が「アツコバルー」に登場!
都築響一さんのメールマガジンで取り上げられた驚異的な巻き寿司作家、清田貴代さん、通称たまちゃん。都築さんの記事に詳しく書かれているので一部を文末に掲載させていただきます。


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最近はやりのデコ弁とはちょっと違う凄味のあるアートです。新宿3丁目のバーで出会った彼女は「私の巻き寿司は俳句のようなもの、その場所やその日の気分で即興で作るから。」と言う。ますます興味ある作家です。こんなに素晴らしいのに口に入れて噛んでつぶしておなかの中に消えてしまう。花火のように、桜のお花のようにいとおしく感じます。
その巻き寿司のデモンストレーションと自分で作っちゃうワークショップを開催します。


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渋谷のライブハウスサラヴァ東京の5階に新しくできたアートスポット、アツコバルーにて。
5月3、4、5日 15時からデモンストレーション 16時から17時まで実習
今回はドクロを作ります。
材料費込みで3500円、エプロンを持ってきてください。今回のワークショップは大人編です。小さい子供の場合は保護者がついていてあげてください。
人数が限定されるので予約してください。

ここに書ききれなかった、それぞれの作品を巻いたいきさつ、テーマにした作品解説など満載なので、こちらのブログもぜひチェックを!
たまちゃんのにっこり寿司

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このイベントは段ボール作家の本濃研太さんの個展「先進国無能会議 渋谷にて開催」期間中、同じ会場で開かれます。

実はたまちゃんにやっていただく話が先にあって、何かもう一つ、彼女と共通項のある作家の展示をしたい。と考えておりました。デコ弁かな? いやしかしフードアートではお互い殺しあってしまうのでは、と考え、たどり着いたのが手仕事。という共通点でした。普段日常の中にいくらでもある平凡な素材から自分の世界を作る。という、ケからハレへ、平凡から非凡へという私の大好きなテーマでこの2名の作家にお願いすることにしました。本濃さんの紹介は次回のブログで書きます。

予約は以下の電話かメールでお願いします
【アツコバルー】
 03-6427-8048
 ab@l-amusee.com


以下、都築さんの記事です

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ノリに巻かれた寿司宇宙

「デコ弁」が流行っているらしい。僕がもし小学生で、母親が忙しくて白飯にハンバーグ乗せただけ、みたいな弁当しか作ってくれなかったら、恥ずかしくてみんなの前でフタ開けられないくらいに・・・いまのお母さんは大変だ。

雑誌やネットで見るデコ弁は、たしかにものすごく凝った出来で、芸術的とさえ言えるものもある。下手したら「これもクール・ジャパン」とか文科省が売り物にしちゃいそうな。パンにピーナツバター塗るか、ハム挟んだサンドイッチをジップロックに入れただけ、みたいなランチで親も子も満足してる外国人にとっては、はるか想像の彼方にある東洋の新たな神秘、それがデコ弁なのだろう。


でもデコ弁って、なんかイヤだ。がんばってるお母さんにこんなことを言うのは大変失礼だけど、弁当ってそんなに気合い入れるべきものだろうか。前夜の余り物を詰め込むぐらいがちょうどよくて、それをガガッと最短時間で掻き込んで、急いで運動場に飛び出していくのが子供なんじゃないかという気もする。デコがデコデコになって、デコデコデコになって・・・そこに見え隠れするお母さん同士の意地の張り合い。子供にデコ弁をつくるお母さんは日本中にいるけど、旦那さんに「オトナのデコ弁」をつくってあげてる奥さんは、どれくらいいるだろうか。


清田貴代さん(通称・たまちゃん)はイラストレーターが本業だが、「巻き寿司アーティスト」でもある。ノリにおおわれた真っ黒の巨大なカタマリを俎板に置いて、おもむろに包丁を入れると・・・あらわれるのが見事なモナリザだったり、阿修羅だったり、ハダカの女だったり、果てはウンコだったり! それがまた単に金太郎飴のように「どこを切っても同じ柄」なのではなくて、切る場所によって微妙に絵柄が変化したりもする。

デコ弁と同じようでいて、実は正反対にあるテイスト。食べ物が「見世物」にもなっていて、それを食らうことの楽しさと不気味さを完璧に理解していて。かわいさを装いながら実はダークな食物芸術世界。それがたまちゃんの巻き寿司アートなのだ。

2013年3月24日 更新

リファッションで遊びましょう

社団法人日本リ・ファッション協会、という所には日用品から家具、衣類、介護用品まで巨大な倉庫にリユースを待っているものたちが集められているそうです。

今回は新しく開くアートスペース「アツコバルー」の開店前の準備期間ではありますが、場所を提供して協会主催のリファッションコンテストの応募者に素材提供と同時開催で一般の方々にも公開してリメイクの楽しさを味わっていただこうと思います。

もちろん蚤の市的に激安の服を買っていただいてもよいのですが、蚤の市との違いはデザイナーやスタイリストが、希望者に似合うコーディネイトや変身願望をかなえてさしあげる、ということです。

自分に似合う服って意外にわからないもの。

何となく。でいつも同じような服を買ってしまうことってありませんか?

でも春ですから、思い切って違う自分を演出してみたら楽しいのではないかしら。

スタイリストがご希望のイメージで上から下までリ・ルックを提案してくれます。しかも上から下までそろえて1000円!なんてこともリファッションだからこそ可能。袖をバッサリ切ったり、ボタンを変えてみたりするだけであなただけの服ができますよ。

こども服も持ってきてくださるそうです、子育て中の方、ぜひ皆さん大勢で来てください。

皆さんが買ってくれるお金は、この素晴らしいボランティア団体が被災地に物資を送る資金になるのです。

3月29日(金)13:00〜19:00
3月30日(土)13:00〜19:00
3月31日(日)13:00〜17:00(最終日は17:00まで)

会場は渋谷のサラヴァ東京の5階に新しくできる「アツコバルー」です。

アツコバルー atrs・drinks・talk
は、バーカウンターを備えているアートスペースです。
入場は無料ですが、ドリンク券(500円)をお買い求めください。

〒150-0046
渋谷区松濤1-29-1 渋谷クロスロードビル5F

2013年3月12日 更新

2013年春「アツコバルー arts drinks talk」始動

アツコバルー ATSUKOBAROUH arts drinks talk

2013年春、渋谷松濤に、アートのライブハウスがオープンします!

2011年日本を襲った大災害の後、痛感したのは
「アートは社会的な活動だ」ということ
だからすべての人は芸術家になれる
時代の風を吸い込んで生まれる様々な表現を受け入れる皿があったらいい
そしてグラスを片手に語りたい
ここはまさにアートのライブハウス
面白いことがもう始まっている

March. 2013 アツコ・バルー

★3月21日(木)オープンハウス&スペシャルトーク「EVIL MEDIA COMPOSTED」

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16:00 -18:30 オープンハウス
太陽光が入る空間は、9枚の可動壁の位置で多様に変化、全遮光のワンスペースまで幅広い顔を見せます。夕方の早い時間から夜まで、自由にスペースをご覧ください。

19:00 - 21:00 スペシャルトーク「EVIL MEDIA COMPOSTED」
出演:シューリー・チェン  YoHA(横小路松子+グレアム・ハーウッド)
司会:四方幸子 入場無料 逐次通訳付(英日) 予約不要

ロンドンを拠点にするアーティストデュオ YoHaとパリを拠点にするアーティスト シューリー・チェン。現代の情報環境にセンシティヴかつ批評的に斬り込むプロジェクトで国際的に注目される3人のヴィジョンや実践を共有できる貴重なトークを、「アツコバルー arts & drinks」初のイベントとして開催いたします。
2月にベルリンのフェスティバル transmedialeで、それぞれ展示「悪のメディア流通センター(Evil Media Distribution Center)」(YoHA)、パフォーマンス「都市に堆肥すること/ネットに堆肥すること(Composting the City | Composting the Net)」(チェン)を発表しセンセーションを巻き起こしたばかりの彼らが、これら最新プロジェクトを紹介するとともに、アートの理論と実践、そしてメディアとエコロジーの変容などについて語ります。

[プロフィール]
YoHA(横小路松子+グレアム・ハーウッド):アーティストグループ Mongrelやフリーメディアラボ Mediashed(英国サウスエンド・オン・シー)の設立、《Tantalum Memorial》(リチャード・ライトとの共作、2009年にtransmediale賞受賞)など、「フリーメディア」「エコメディア」「ソーシャル・テレフォニー」を基軸にした活動を介して、グローバル化した世界における権力とアートそしてメディアの関係を探索している。
http://www.yoha.co.uk/

シューリー・チェン: アーティスト、コンセプチュアリスト、ネットワーカー。ネットワークをベースにしたインスタレーションやコラボレーションによるパフォーマンスを精力的に展開する。NYのグッゲンハイム美術館初のネットプロジェクト《BRANDON》(1998-99)以降、映画やアートにSF的ナラティブを導入し独自の世界を構築。《Buy One, Get One》(ICC,1997)や監督した映画『I.K.U.』(アップリンク、2000)など日本での制作多数。
2013年のプロジェクトに《seedsunderground.net》《accidental-landing.mobi》がある。
http://mauvaiscontact.info


〈 アツコバルー ATSUKOBAROUH arts drinks talk 〉今後の予定
 2013年4月3日 プレオープン
  グランドオープンに向け、実験的な企画や空間の使用を試みていきます
 2013年6月28日 グランドオープン

【アツコバルー ATSUKOBAROUH arts drinks talk】
 アツコ・バルー(店主)
 四方幸子(アーティスティック・ディレクター) 
 福原志保(マネージング・ディレクター)

〒150-0046
東京都渋谷区松濤1丁目29-1 渋谷クロスロードビル 5F
東急Bunkamura 角、1Fがファミリーマートのビル、右側エレベーターで5Fへ

TEL 03-6427-8048 FAX 03-6427-8886
E-mail ab@l-amusee.com

2013年2月13日 更新

こんにちはサラヴァ、そして二年が経ちました

サラヴァ東京を開いて今週末で2年が経つ。2年前の今頃は、試運転中だった。つまり店を開けてはいたが、大きな声で宣伝するわけではなくて、つまり人に来てほしいのだが来てほしくないような中途半端な状態で、音響設計をした久保田麻琴さんも、2月くらいまではいろいろなスピーカーを持ってきてテストをします、と言っていたし、出演者たちにも、「まだ、試運転なので良い音が出るかわかりませんが実験に参加してもらえませんか?、」と断りながらで毎晩、どんなステージになるか、ハラハラしながらの手探りをしていた。今だって、気楽にやっているわけではないが、サラヴァスタイル、というのつかんできたような気がする。音もすっかり慣れてきて、すると、今度はもっと大きな音が出したいな、とか,ぜいたくを言い始めている。

内容の方も、定期的にやってくれる素敵な企画ができた。

「大人ディスコ」たかぎまゆさんの企画でコンテンポラリーダンスの人たちを集めてディスコダンスを踊りましょう、というユーモアたっぷりのイベント。コンテンポラリーが難しいものだという垣根を取り払って、体を動かす楽しさをみんなで体験することから始まる。

「ラロンドオコチエ(La Romde Okotie)」ジャズ好きが高じて自分のレーベルまで作ってしまった大河内さんが企画する月1回のイベントで毎回初顔合わせのプレーヤーたちのセッションナイト。一期一会が毎回新鮮で音楽的です。

「セクシー大サーカス」セクシーダヴィンチさん率いるストリートアーチストたちが、毎回パントマイム、ジャグリング、マジックや音楽で時を忘れる楽しい時間を提供してくれる。

「バーブエノスアイレス(bar buenos aires)」は吉本宏さん、山本勇樹さん、河野洋志さんのイベント、アルゼンチンの音楽家カルロス・アギーレが大好きな彼らの選曲で、世界中の質の高いレコードやライブを聞く大人の音楽会。

そして忘れてならないのは戸川昌子さんの「月曜シャンソンコンサート」。青い部屋で行われてきた名物イベントが引っ越してきました。ディーヴァ、戸川昌子のステージを近くでみられます。

スイングジャック(SWING JACK)」はアモーレさんの率いるリンディーホップダンスの会。音楽も素敵だしダンスも年齢に関係なく楽しめていつのまにか汗びっしょり。

「ショーケース(SHOW CASE)」はオープンマイク、オーディションなしで誰でもステージに上がって音楽や歌が歌えます。毎回ゲストが加わりセッションもできます。

「一人芝居」はショーケースの演劇版、1人10分で一人芝居をします。

「レコード観賞会」は自分にとっての特別な曲を、ひとつ持ってきて話を3分してからみんなで曲を聴きます。

去年からスズカツさんの朗読演劇のシリーズも始まりました。

岡本太郎は「生きていることが芸術なんだ。」と言ったけれど、「生きてる」ことと「生き延びている」ことは違う。毎日の仕事や学校では「生き延びる」ことを学ぶけれど、ここでは「生きる」ことを楽しみたい。そんな思いで毎日やってきた。そしてこれからが勝負だ。世界中のどこにもありそうでない場所、はじめてくるのに懐かしい、ただいま!って言いたくなるような、それでいてワクワクする基地を作りたい。そのために私たちはアイデアを出し合って楽しむ術を研究したいです。

2周年の記念3日間が明後日の金曜日から始まる。
http://l-amusee.com/saravah/schedule/log/20130215.php
http://l-amusee.com/saravah/schedule/log/20130216.php
http://l-amusee.com/saravah/schedule/log/20130217.php

記念のビデオも作ったので見てください。

2013年1月14日 更新

正月に北斎の空間で酔っ払う

ギメ美術館の北斎展がもう終わるから是非見にいらしたらどうですか。とパリ在住の画家黒須さんに勧められて最終日に間に合った。パリの北斎展といえば今から25年ほど前に大掛かりな展覧会がマレー地区にある美術館で開かれた時、私も大学生で、見に行った、そして東洋の小国から留学している一留学生として、たぶん日本で見るよりずっと北斎のオリジナリティに感服してしまい、私も北斎の子孫の端くれである。ということに誇りを持ったものだ。今回は小規模な展覧会であったが久々に本物を見て、その偉大な才能にまたまた感激した。

私が特に好きなのは風景画である、その不思議にゆがんだ空間に吸い込まれてしまうのがなんとも心地よい。北斎流の三次元に漂い、酔っ払ったように足をすくわれる。かと思うと空間の真実に近づいた気にならされて、ああ、これでよいのだ。これぞ日本人の空間なり。と、変に納得するのである。これは北斎だけでなく、平安時代の絵巻からある不思議な空間の話であるが、今回北斎を見たので北斎の空間ということに私に中でなっている。

普通風景画には近景、中くらい、そして遠景とある。(と思う、私は専門の勉強をしたことがないのでそう思っているだけなのだが。)そして北斎の浮世絵の風景は正しくない、普通に見たらそんなわけのない近景、中くらい、遠景なのだ。何をもって正しくない、というのかというと西洋の遠近法であり、写真に撮った場合の見え方から言うと正しくない。

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この百人一首のシリーズの駕籠かきの図を見ると、うまく言えないが、右下の天秤がもろに真正面で、わらじを直している人と、その上の石畳の坂道を走っていく駕籠かきとの関係はおかしい。駕籠かきが下っていく坂の下に立っている家の屋根なんかもっとおかしい。まるで遊園地のミラーハウスにいるみたいに目がくらくらしてくる。前景でほぼ言いたいことを言ってしまった後、中頃の風景で広がりを見せる平野、濃い茶色にベージュの道が蛇行する川のように模様っぽく書かれている、ここいらやりたい放題、デザイナーとして遊んでいるな。という感。道を行く籠や人々は帳尻を合わせるための説明で、遠景はもうどうでもいい感じで白い空に雑木林の影絵。

この楽しそうな風景からは声が聞こえてくる、エッサー、ホイサーの威勢のよい駕籠かきの声が聞こえたかと思うと、大きな声は左下の坂道に吸い込まれて、はるか遠くの道に小さく消えていく。私たちの目はそんな風に駕籠かきと一緒に絵の右から左へまた右に向かっていく、その空中遊泳がなんと気持ちよいこと。まさに西洋みたいに視点は一点ではなくて北斎の絵の中では動いているのだ。その動きの中で空間は正しく作用している、問題なし、である。でも動いているから少し船酔いする。それが先ほど私の言うマジックハウス的な体験、ということ。

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次の絵もまた百人一首の中にある一点だが、こちらは声は大して聞こえてこないが、煙が主人公である。焚き火をするとわかるが煙は高く上ると拡散して上のほうはもうもやもやである、こんなはっきり白い形になったりしない。でも北斎は平気で蛇みたいにくねくねさせている、なぜならこの煙が私たちの目のガイド役を演じているから。

右から左に行って作業している人間たちの上をかすって、意味不明の中頃の白い池みたいな物体(ただの引き立たせ役)で一呼吸おかせて素敵なおうちに向かう。おうちの裏にはこれまた煙においでおいでをしているような、もくもくした茂み、そのまま空に消えちゃうかと思いきや、ちゃーんとユーターンして帰ってくる。私たちの目は煙に乗っかって風景の中を奥に奥にと入っていく。これまたゆがんだ世界の遊覧飛行である。

西洋のルネサンスのイタリア人はとてもまじめでインテリで、とにかく真理は一つだし、視点も一つだし、(多くの絵はキリスト教の宗教画だったし、あるいは史実を語ったし)とにかく学術的だった。なんだか自分のインテリジェンスのレベルを絵で表現していたようなところがある。もちろん彼らもいろんな仕掛けを絵に込めていたし、実に素晴らしい絵画が山のようにあるので、別に悪口言う気はさらさらないのですが、われらが北斎はなんと言っても「阿呆くさい」、のほくさい。辛気臭いことが大嫌い。名前だって平気で変えてしまうし、写楽だった、という話もあるくらい。基本、アナーキーで権力や金銭に媚びたりできない性分。空間だって三脚でたって双眼鏡で見るようなもんじゃあありません。目は2つあるし、いつも目玉は動いており、うれしいいことに立体の世界では目が動くたびに形は違って見える。見えないところは空想で見ちゃう。そんな不確実な真実を叙情的に表したのが北斎である。

とても興味深い展示があった、北斎のスケッチと下書きである。スケッチのたぶん2枚目と3枚目が並べてあった。2枚目では細かいスケッチがなされて、構図もかなりまとまっている、そこで目を引くのは画面に赤い線がたくさん引かれていること。木に登った人が紐で何かしている図だが、紐が画面を面白く分割している、その上、木の幹が面白い形にまがり画面を2分して、枝もまた叱り、そのすべての構成に必要な線が墨の絵に赤く線引きされていた。3枚目のスケッチでは赤い線はなく、下書きの赤線をうまく構成して独特の目を散歩させてくれる動きのある画面ができていた。北斎は線で絵の面白さ、そして遠近まで演出してしまうのだ。

印象派の画家たちが驚嘆したのは富獄三十六景のなかにある大きな青い波がぐわーんと盛り上がった前景から、波の上にちょこんと小さな富士山が乗っているように書かれたあの有名な浮世絵だ。あの遠近法にロートレックもモネもガーンと一発やられてしまったのだ。

これでいいのか?これで空間が表せるのか?というまるで天地がひっくりかえったような衝撃をうけたらしい。その上、時代はまさに写真が発明されたころ。もう写真みたいに描かなくてもいいのだ。ということで路頭に迷うかと思いきや彼らは開放されて、遠近法も写実もなくなって西洋絵画は抽象へと大きく流れを変えたらしいのです。そうか、そうか、日本すごい。日本画なかったら印象派もなかっただろう、どうだい。へへ!

でもちょっと待って、自慢するのは早い。反対に西洋の絵画を発見した日本画はどうなったか?それが実はまずいのです。今になっても日本画はのたうち回って苦しんで道を見つけられないでいる。(と思うのですが、間違っているかな?)だからごまかすために封建社会みたいな画壇を作って大家の先生を奉っているとか?

あの理路整然とした遠近法を発見してしまった明治の日本画家たちにはもう平家物語絵巻のような描き方はできなくなってしまった。知らないふりなんてできないし。じゃあ、昔の墨絵のすごい人たちがやったみたいに濃淡で空間を表したり、北斎らの浮世絵師みたいに線やコンポジションの妙でゆがんだ空間を作り出したら?ゆがんだ空間でなくてデフォルメされた人物を描いて惨めな結果になったり、狩野派のようにただきれいな模様を工芸的に描いている人もいる、でもそんなの面白くない。岩絵の具をこてこて塗ってマチエールを出している人もいるけれどいづれも、成功しているとは言えない。あーあ、ってため息をついてしまう。あれ。面白いかも、と思わせるのは無名な日本画の人が多い、大家だから表現が自由ではないのだろうか。だれか道を示した人はいるのだろうか?そして日本の西洋絵画は?北斎の子孫として日本の枠を超えた画家はいたのであろうか?明治の大家、梅原龍三郎や安井曽太郎の絵を見てもなかなか健闘して、よい絵を描いているのだが、西洋の著名絵画に比較すると弱い作品だし、世界ではまったく評価されていない。このことをどう考えればよいのだろう。そして昨今の世界的に評価されている日本の現代作家たちの活躍はどこから来たのか。

年頭に北斎を見ながら考えている。でもこのことは昔からずっと考えている日本美術のなぞである。

2012年12月 9日 更新

「おうちでアート」から「あなたがアートへ」
 ラ・ケヤキの10年、そしてあたらしい試みへ

11月23日から25日、連休の3日間、松山朋未さんの展覧会をラ・ケヤキで開催した。その時のレポートはブログに書いてあります。興味のある方、素晴らしい展覧会だったのでチェックしてください。
松山朋未 個展「とこしえ_る」

松山さんの個展を終えて、新しいアートスペースを渋谷に開く計画が形になりつつある今。気がついた。このラ・ケヤキでの活動を始めたのが2002年の野外彫刻、簔口博展だから10年経たことになる。

ラ・ケヤキで私がやりたかった事はアートをホワイトボックスから引っぱり出し、住宅空間にひきつけることだった。私はひねくれているのか、アート、特に現代アートに胡散臭いものを感じていた。デュシャンが便器を泉と称してギャラリーに展示したのはすごく面白いけれど、それはメッセージであって、キャンベルスープの缶を作品にしたのと同じこと。でもそれとうちに持って帰りたい作品とは違う。しかしギャラリーはコンセプトの説明文がないとただのゴミ、のようなものをありがたそうに白い台の上に置いて、スポットを当てる。これがアートでござい。わからないならお前が馬鹿よ、とばかり気取っているのをパリでさんざん見てきたのだ。気取っているのはフランス人の国民病だが、とにかく威圧するアート、スノッブなアートにすごくがっかりしていたのだ。


アートと暮らす体験を

展覧会をするのなら、作品をゆっくり見てほしい。ご飯を食べながら、酒を飲みながら見る絵や、昼寝して目が覚めた瞬間に見える彫刻が展覧会の作品であってもよいではないか。いやむしろ、お高くとまっている「アート」じゃあ物足りない。ぐっと負荷をかけて、生活空間の匂いやアクの強さ、雑多な電機製品や子供の宿題や先祖の位牌なんかにも立ち向かってしまう、個性を強烈に主張する、図太いアートを見せたかった。

この10年間、私の兆発を受けてたったアーチストたちがこの家のために、ときには住み込んで、で様々な作品を作りだした。作品のテーマに合う食事や音楽、朗読、ダンスも同時に展開してきた。そして何よりうれしかったのは訪問する人たちがギャラリーにいるよりはるかに長い時間をここで過ごし、子供と庭で遊びながら、知らない人たちと話したり、アーチストと酒を酌み交わしながら、アートを通して他者と触れ合ったことである。

ラミュゼdeケヤキ、過去のイベントや展覧会


神は細部に宿るように、アートはそこいらじゅうに潜んでいる

では、そのような活動を通して私は何がしたかったのか、何がゴールだったのか、と今振り返ると、アートってそこいらじゅうにあふれている。と気がつくことだったのだと思う。

「アート」と果物かごや親せきのおばさんが作ってくれたお人形が棚の上に並ぶ時、あなたの「アート」があっさり負けてしまうこともある。アーチストではない普通の人が作るものや作為のないかごなんかに感動することもいつだってある。そんな日々のアートを発見するのは人生の楽しいことのナンバーワンに入るかも知れない。


心は揺れるもの、価値だって揺れる

もうひとつ、いろんなシチュエーションで作品を見ているとわかることがある。いつも素晴らしい物ってないのだ。その日の自分の精神状態でも見え方はちがうし、手に取った時と棚に置いた時でも見え方は違う。人の心は絶えず揺れていて、我らが立っている大地もすごいスピードで回転している。だから絶対的な美も絶対に感動する絵もない。まあ、そういうことなのだ。(ゴッホの絵のようにかなりヒット率が高い作品もあるのだが。)
人間は記憶の動物で、感動していなくても、あ、あの絵はいい絵だよね、と自分で納得してしまう、でもその絵は昨日も今日も同じくらい素晴らしいかな?それは正直言って違うと思う。


人につきあうようにアートと付き合う

不確かな感受性、不確かな世界を十分わかった上で、それでもアートの中には自分の心臓をバッキューンと射抜いてしまう力のあるものや、泣いてしまう作品もある。でもしつこく言うが、ギャラリーでスーツを着た店員が進めるからそれがアートで、感動しないお前が馬鹿ということはないのだ。あなただけの感じ方でじっくり付き合うと作品は語りだす。そこまで心の旅ができてしまう、しかもギャラリーではない場を提案したかったのだ。


今、まさにこの国で起こっている大事な変化

3.11の後に、私たちもアーチストたちもあまりに大きな不幸の前で無力感に打ちひしがれた。ある人達は、絵筆を捨てて泥の掃除に三陸に行ったし、ボランティアに奔走した。災害を通して、アートは社会との関わりに向かって舵を切った。
本来アートとは社会的活動である。今までに人類の歴史の中でそれぞれの時代や土地に、言葉にも数字にも表わせないものがある。そんな真実のエッセンスをアーチストは表現する。社会にとって鏡のような大切な存在である。

そしてアートは生きながらえる。縄文時代から、いつだってどこだって、帳簿や、金銭は消えてなくなるしその時代のお金持ちや政治家の名前のなどは忘れられるけれど、文化と芸術はふるいにかけられて残る。その残った宝物から未来の人たちは時代の本質を知ろうとするのだ。だから、今、3.11のあと日本人が何を表現しようとしているのか、アートはショックをろ過した後に何を生み出してくるか。これはとても重要なことなのである。

多くの美術館やキューレーターはもちろんそんなことに気が付いているし、水戸芸術館で先日までやっていた「3.11とアーチスト進行形の記録」など、真剣に受け入れている。けれど、美術館では取り上げられないムーブメントをすくい取るギャラリーになってみたい。と今年になって思った。しかも若者や世界中の人たちが集まってくる渋谷の街に欲しいと思った。来年春、サラヴァ東京の入っているクロスロードビルの5階がその場所になる。


社会をデザインせよ

ラ・ケヤキの10年の経験があり、今、アーチストにかかわらず多くの人が社会を変えようと、よい一生を送るために価値観をどう変えるべきか、真剣に考えている状況を見ていると、頭に浮かぶのはヨーゼフ・ボイスの言葉である。
「クリエイトしている人はすべてアーチストである。すべての人間は芸術家たりえる。」
彼はヨーロッパの人間だから芸術というと至上のもの、という常識の中に住んでいた、我々の日本には絶対の神も至上の芸術などというコンセプトもたかが100年前までなかった。日本では「芸術家」はおだてる言葉ではない。優れた植木やに向かって「芸術家ですね」、などといったら「しゃらくせいやい!」と怒鳴られそうである。ま、それはまた違う議論として、今や呼び方に関わらず全ての人がクリエイティブになることができる。

音楽と映像においてウエブ上ですべての人間は表現し世界に向けて発表することができるようになった。アートでも今同じことがなされようとしている。お菓子作りでも盆栽でも木を植える作業でも、コミュニティ作りでも、表現者になれる。社会をデザインするってそういうことではないかしら。


ここでプチ復習:~ヨーゼフ・ボイスの言葉より~
・芸術とはすべての創造的な労働のことである。

● 私が試みていることは、観賞される芸術作品でなく、作品を通してなぜそれが成立しているか―それがいかに社会と関わりを持っているのか―そういう "なぜ" という問いを喚起することなのです。

● 私はどんな人間も芸術家であると言いましたが、それはどんな人間も画家になったり、あるいはモーツアルトのようになったすることを意味するのではありません。どんな人間も社会の変革のために働けるという意味です。


正解はなくても、提案はできる

ではそれぞれが自分の情熱に従いアート表現をするとどうなるのであろう。
答えはいつも多様で、価値観も同じく多様である。という事を容認できる、懐の深い社会の準備ができてくる。個人の価値観を尊重する社会。自分が他人と違うと表明できる人たちは他人の違いも大切にできる。私が提案する新しい場所は多様な価値観が出会い、社会との接点を求めぶつかり、勇気をもらうような場所、ファッションも写真もパフォーマンスも何でもあり。渋谷のような人間のごった煮の一つの具にそんなのがあってもおもしろいかもしれない。

2012年10月26日 更新

グローバルとローカルはジェテーム、モア、ノンプリュの関係


渋谷のビルの地下
10月6日土曜日昼さがり
サラヴァ東京で、日本人の男女がアイリッシュダンスを踊っている、なんてアイルランドの田舎の人は想像しているでしょうか?不思議で楽しげな光景に、私は昔聞いたことのある鄙びたメロディや祭りのシーンをその時の枯草の匂いや太陽の光に舞うホコリ、人々の汗や笑い声まで一気に蘇って、それと澁谷サラヴァとのギャップになんだか空中を泳ぐような気分になった。irsh1.JPGのサムネイル画像

渋谷はお洒落だが、本家は、はっきり言って、汗臭い

私たち日仏混合家族のフランスの故郷は西フランスのヴァンデ県、地方で言えばブルターニュ。ブルターニュというのはブリテンのフランス語読みで、ここいら西フランスは昔グレートブリテン(イギリス)に対してプチブリテン、つまりイギリスの一部だった、そしてケルト文化圏、アイルランドとは近い関係なのだ。その田舎の家は観光地からは遠い内陸の農村地帯にあって、夏の盛りに麦を刈って、そのあとの野原でお祭りをする。この時に毎年登場する巨大な時代物の脱穀機や蒸留酒を作る銅製の機械がまるで舞台の背景の大道具のように並べられ、籠を編む人や、林檎やはちみつ、白いんげん、地酒、ソーセージなどお国の特産が並べられる、おらが村の自慢大会である。moisson.jpgのサムネイル画像老人たちはアコーデオンとバイオリンを持ち出して来てほし草の上に腰をかけると演奏を始める。若者たちは、普段はTシャツにジーンズ姿なのだがこの日は絵に出てくるような白いシャツに厚手の黒い布のズボンに木靴、女性はたっぷりしたロングスカートにエプロン白い頭巾、そしてぼってりした木靴でダンスをする。男女で手をつないで輪になって回って、カップルになってまた離れてまわって全員で決めの足踏み。ドスドスドン。というアイルランド出すとほぼ同じ農民の踊りである。白人だから日に焼けると真っ赤になる。農民たちは真っ赤な顔で、普段寡黙な連中がその時はお酒も入って、卑猥な冗談を飛ばし、女性をじろじろ見ながら大きな声で皆叫んでいる。女も男のひどく太っていて、(ひと昔前は農村では皆とても太っていてスーパーのレジなど横ばいにならないと通れない女性がたくさんいた)目も鼻も顔にのめり込んでいる感じではっきり言って美しいの反対のルックス。この時とばかり抱きついたりチューしたり、まあ、はじけること、しつこいこと。私は毎年の祭りの猥雑さが嫌で仕方がなかった。moisson2.jpg
そのめちゃローカルな土臭い祭りの音楽とダンスが、脂肪を抜かれ漂泊されて、フィルターでバイ菌を濃し取られたら、ケルトの叙情性のあるメロディとシンプルで愉快なダンスが残った。それは渋谷のサラヴァで繰り広げられていたその日のイベントだった。
私の感慨深さはそこにあった。そうか、ローカルがグローバルになれたのか。彼らの民謡は、漂白に耐えて残るものがあったのだ、泥の中に宝石がちゃんとはいっていたのだ。

ジュテーム、モアノンプリュ

「あいしてるわ、ぼくだって大嫌いさ。」といったのはフランスの作詞家、ゲンスブール。恋愛の不条理を表した言い得て妙なセリフ。
グローバルとローカルは犬猿の間、でも変態ぽい恋人でもある。だってゴローバルはローカルを馬鹿にして阻害しているくせにたえずそのうちに秘める宝を虎視眈々と狙い、商業的に行けると思えば遠慮なく奪う。でも奪われる方も奪われることによって生きながらえる可能性を与えられる。

まるで豚みたい。野生の豚はもしかしたら絶滅していたかも知れないけれどヒトの家畜となって食われる対象になったからこそ品種は変えられたが生き延びている。


ローカルとグローバル。この相反する動きが大きな振り子のように行ったり来たりするのがアートや文化の常。ローカルの財産を資源にグローバルは成長する。そしてローカルをつぶす。つぶされる前に姿を変えても生き延びるないといけない。それが文化の多様性が保たれるための条件かも
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ブルースだってヒップホップだってローカルだった、グローバルに絶えずローカルに資源を求めつつ、他のローカルをつぶしていく。
思えば近代の日本だって、へき地、日本のアートがいかにヨーロッパのグローバルの仲間にはいれるか、悩み苦悩していた歴史である。でも皮肉なことに悩んでいた彼ら、西洋画の安井曽太郎や、梅原はついに国境から出ることはなく、ローカルで終わり、そんなことを気にしない新しいジェネレーションの連中が世界に出て行った。
最近では宮古島の神歌を記録に留めようとした久保田真琴さんプロデュース大友功一監督の「スケッチオブミャーク」がどローカルにして素晴らしいパワーの籠った音楽を世界に見せた。
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これらの例が教えてくれるのは、迎合したはいけないんだということ、辺境は辺境のまま、どローカルを守ることで普遍性を勝ち取ることができる、ということ。たろえ脂抜きされてもしっかり残る骨組みがありそれらは世界の価値として共有できるということだ、アイリッシュダンスのように。


なぜ私がアイリッシュダンスに特に感動したか、おかしく思うかもしれない。日本人はタンゴも踊ればフラメンコもアフリカンダンスも、世界中の踊りを踊る人がいるのだから。
それは私はこのダンスが実際そのコンテクストの中で踊られているのを経験しているからだ。きっと、ロンドンのおしゃれなクラブで佐渡おけさが演奏されておしゃれなロンドンの若者が輪になっておけさを踊っていたら感じるような不思議な感覚を私は感じたのだ。

それがグローカルということなのでしょう。

2012年9月29日 更新

経済学では(たぶん)予測しなかった私たちの行動

DSCN9754.JPG先週末の3日間、ラ・ケヤキでハンドメイドマルシェ第3回目を開催した。「若い手作り作家の登竜門になってほしい。」という手芸作家、岩切エミさんの企画で、今回は16人の作家と、料理2グループ、マッサージ、ネイル、まつげ、バー、も集合して、賑やかな展覧会になった。

今回も含めて作家展を幾度となく催してみて、お客さんは何をどういう動機で買うのか(買わないのか)、と常に不思議に思っていた。安いから買うのではない、きれいだから、というだけで買うのでもない。

私は経済学に疎いので断定はまったくできないが、消費の法則って、他より安いから買う、という価格競争の理論とか、みんなが持っているから欲しい、という横並びしたい欲望とか、反対に誰も持っていないから欲しい、そういった数種類のパターンに沿ったルールがまかり通っていたのではないかと思う。

でも今、先進国の女性たち(今回は女性が対象だったから、そう言います)は、いくら安くても、いくら個性的ファッションでも、買いたくない。という人がたくさんいるのです。


P9230021.JPGお客様と話しながら皿の上に乗せた作品を楽しんでます


できれば貨幣を媒体とした経済活動には参加したくない、とまで思う人もたくさん出てきました。60年代にカナダで始まった大きな組織、(あああ。どうしよう名前忘れた!)は物々交換の大きなマーケットです。「私は屋根の修理ができます。交換でアイロンかけをしてくれる人を探しています。」と言った広告を出すフォーラムのようなものです。ソーシャルネットワークのさきがけですね。今では日本でも「わらしべ長者」、というようなサイトがあります。都会の若者の間ではお金も大していらないよ。という人たちも増えています。服や日用品はフリマで100円あれば買えるし、音楽や文化はタダだし、アパート代さえ払えれば、豊かに人生を送れる。ストレスある職場で夜中まで必死に働くことに何の価値も見出していないのです。
多くの人が消費に喜びを感じているのも事実ですが、こういう、学者がたぶん予測していなかった行動をする人たちがあながち極端な例ではないと思いますよ。

買うのはものじゃないよ、心のひときれだよ

我々の展覧会に来てくれる人たちは、たぶん、進んだ意識をもっている人たちです。(資本主義から見ると退化した考えとも言えますが)そのような人たちがなぜ作品を買うのか。というと、これまた規則などありませんが、どうやら「心意気」を持って帰りたい。と思ってくれるのではないかと思います。企画者の岩切さんもそのように感じていると、言ってました。もちろん稚拙な作品では「頑張ってま~す」と言っても「え、ちょっと、ごめんなさい」というところですが。頑張りではなくて、自分はこれが好きだ、これはしたい。これしかないのです。というようなオーラが作家から発せられているのを感じて、お客様は「よっしゃ、あんたを応援してあげようじゃないの。」ということで買ってくださるのだと思う。奇麗なブローチやネックレスの向こうに感じられる作家のハートを買うのではないかしら。

そう思うと今社会現象にまでなっているAKB48もそういうことらしい。毎日秋葉原でショーをやって、最初はつたない少女たちが、がんばって、少しづつ歌が歌えるようになりきれいになっていくのを応援するのがだいご味らしいのです。

こういうのを参加型(応援型?)消費とも言うのでしょうか?今回参加していただいたシャプラニールさんはフェアトレードの会社です。バングラやネパールの人たちが自立できるようにクラフトを、搾取しない値段(フェアーな値段)で販売する会社です。去年震災支援で、三陸の子供たちの絵葉書を展示する階を同じラ・ケヤキで開いたことから今回の参加になりました。

P9230001.JPG海の向こうでもチクチク、バングラの女性たちがやってます


先週末のイベントにお客様として来てくださった株式会社福市 www.love-sense.jp の高津玉枝さんはフェアトレードと震災被害者支援で大活躍している人です。震災の1ケ月後、阪神での経験から被災者たちが現金収入を得る機会がないことを心配して女性たちが手仕事で簡単にできる商品をデザインして販売することにしたそうです、そうやって作ったブローチ、840円のうち50%が作った人にわたります。1年間でなんと1千万円以上の現金が150人の編み手さんに渡りました。この事業には多くの小売店やデパートが例外的にかけ率80%で請け負ってくれたそうです。まさに、生産者、デザイナー、小売店、消費者が心でつながって、その数字を出した。というすばらしい事業をあっと今に成功させた人です。現在、被災者はまだ困っているけれど震災は少しづつ忘れられていく。次の手を考えているそうです。


でもお金も大事ですから


と、ここまで書いて、自分の考えの思い上がりに気が付きました。だって三陸の女性たちは、家や家財道具が流されて、現金収入が必要なのでしょ?と一方で認めて、方や我々は進んでいる意識の持ち主だから貨幣経済なんてもう嫌だ、とスノッブなことを言っているのですから。
確かに一次産業の近くに住んでいる人たちは海の幸、畑の幸をみんなで分けあうからお金で米や食料を買わなくても済んでいます。自分たち都会人もどこかでそんな暮らしにあこがれているくせに都会の便利や安全を手放す気はないのですから。ですから私の言うことは所詮都会者の寝言にすぎないのでしょう。しかしここまで言ったのですから自分の矛盾を、まずいなと思いつつも話を進めますと、ヨーロッパのスーパーではチョコやコーヒーの売り場に普通にフェアトレードの商品がおかれていますが日本はまだまだ。よその国でどんなことが起こっているかの関心度がまだ低いのですね。でも、これから大きくなるマーケットだと思います。想像力を働かせればコーヒー農園で働く人は賃金をちゃんともらったほうがこちらも何かすこし嬉しい気がします。


参加する楽しさを買う

P9230010.JPG(子供たちに詩の朗読を聞かせたりもします)

2-3年前に知ったアメリカの会社、キックスターターはクラウドファンディングのさきがけでした。
http://www.kickstarter.com/

いつもユーモアのセンスが聞いた自己紹介ヴィデオがあって、たとえば「僕たちはサンフランシスコとニューヨークでライブハウスを開きたいんです。こんな音楽をこんな値段でそれには...ドル必要なのです」みたいな内容です。それぞれ投資に見合ったバックがあります。映画だったら試写会にご招待もあれば中国系の監督の映画出資では「私のおばあちゃんは料理がうまいから、出資してくれたら映画の帰りにうちでディナーにご招待します。なんて言うのもある。いかにも天真爛漫、良いアメリカの香りがたっぷりのサイトです。当時私は夢中になってこれを日本でもやりたい。と騒いでいたらこれは日本では無理だ、(なぜか知らないが、いつもそういうことを言う人っているのです)と言われたが、そして実際私のスキルではこういうことはできないので、しょうがなかったのですが、いいアイデアというのは国境を超えるものです。今や日本のみならず、それが世界にも広がっているようです、先日イランの巨匠アッバス・キアロスタミがクラウドファンディングでお金を集めて映画が作ったらしい。『マルコヴィッチの穴』のチャーリー・カウフマンは60日間で3,000万円超を出資してもらったとか、あっという間に大きなビジネスになっているのでおどろきました。

楽しい退化

世界の経済がどういう方向に行くのか、「楽しい退化」をしている我々先進国の人間は、「激しく進化」している中国の野望にあっけなく征服されていくのかもしれません。しかしすでに物欲の虚しさを経験した人々は違うところでの豊かさを模索し始めています。中国の人たちがそうなるのも時間の問題でしょう。壁にぶち当たらないと、他のやり方を模索できないのが人の愚かさです。そう言っても人間は捨てたものではなくて、人類は少しづつお利口になっていると思いたいです。そのうち国家とか人種、宗教の違いなんて皆の顔がすべて違うくらいのことだよ。といえる「イマジン」みたいな世界が来るように。

私ってやはりユートピア好きです。

2012年6月25日 更新

マチスのシリーズ画とルイ・ステーの蜘蛛の糸

P6210050-001.JPG先日までポンピドーセンターで開催されていたマチス展 ≪ペアーとシリーズ≫はその切り口が素晴らしく面白かった。

お断りなければいけません、写真はすべて2人目の画家ルイ・ステーのものです。マチスの絵はみなさんご存知でしょうから、知名度の低い、しかし実力は引けを取らないスーテーの絵をちりばめてご紹介します。すべて展覧会のショットです。

マチスは1枚の絵にたどり着くまでに20枚以上の絵を描いている。マグノリアの絵をかくときでも、ペンで画面の真ん中に花瓶があって花がこんもりと活けてあるのは1枚目ならその1枚目の出来を見て、きっと作家は「あ、ここが面白いからこの部分が生きるように上に空白を作ろう」とかで2枚目を描く、するとまた「この部分が間が抜けているから壁紙の花模様を入れてみよう」とかで3枚目を描く。そうしてああでもない、こうでもない、とやって、やりつくしたところでこれで良し。というのができる、しかもそれまでの20枚は、全部作品として完成度が高い。

絵画を少しかじった私としてどこが面白いかというと、それぞれの絵を見ると、きっとマチスはここが好きだったんだな、とかここに満足しなかったんだな。だからこうきたわけね、おお、なるほど、次はこう来たか。という過程が手に取るようにわかって、まるで画家を会話しているような気分になることだ。そして生意気に、「いや私ならここがこう描かないな。」などど心の中で彼に突っ込みを入れたりする、まさに同じアトリエにいるみたいなダイナミックさで絵画と対話できる。そして鑑賞者としてうれしいのはどうやって芸術が生まれるか種明かしをしてもらっていることだ。誰でも花のスケッチはできる、下手でも素敵な絵はたくさんあるし、心根が見えて感動させる絵もたくさんある、けれど芸術、という域に達するんはまたレベルの違う、大変なことだ、芸術と素人やアマチュアの違いはなんだろう。心を打つのはさっきの言ったように清い心があればできる。「芸術家」というのは多分、それ以上ものをそこに故意に込められる人のことだ。ふてぶてしい強さ、居を突かれるような弱さ。というのもその一つである。

マチスはこれらの、発展系絵画とでもいおうか、その経過自体を写真にも撮り、作品として発表した。(すごくモダン!)1940年あたり(すみませんノートとってくるの忘れました)の個展では、6枚の絵、6つのテーマで、それぞれのテーマに対して20枚づつの経過を展示した。

その展覧会に際してマチスの書いた文章がある。あまりに素晴らしいので、これはノートに書き写した。
 
La reaction d'une etape est aussi iportante que le sujet. Car cette reaction part de moi et non du sujet. C'est a partir de mon inerpretation que je reagis continuellement jusqu'a ce que mon travail retrouve en accord avec moi. Comme quelqu'un qui travaille sa phrase il retravaille , il redecouvre...
A chaque etape j'ai un equilibre, une conclsion. A la seance suivante, si je trouve qu'il y a une faiblesse dans mon travail, je me reintrouduis dans mon tableau par cette faiblesse. Je rentre par la breche, et je reconcois le tout "
Matisse 1936


訳します。
一過程に対する自分の反応はテーマ自体より重要だ。なぜならこの反応はテーマから来たものではなく自分から来たものだから。自分の解釈を頼りに仕事に納得するまで反応を繰り返していくのだ。文章を書く人のように、書き直し、直すたび発見して、というように・・・
過程の一つづつで私はバランスを見つけ、結論を出す。次に仕事に取り掛かった時、前に描いた絵に「弱さ」を発見したら、その弱さから絵の中に再び入っていく。割れ目から入って行って、すべてを構築し直す。
9136年   マチス 

彼は絵と会話して、対象物(花とかモデルとか)と自分、そして絵画の三画関係のキャッチボールをこのように、ボールを投げては弾んで返って来るという作業を通して、自分が描きたかった絵との誤差を埋めていった、攻めて攻めて最終的には誤差がないところまで持って行った。しかも投げられたボールはすべて完成されていた絵画であった。キャッチボールのみではなく、いろいろな視点で対象物を見ては作品を作り、まるで、大好きな物を横から見て、上から見て、夜見て、朝見て、サングラスで見て、寝ながら見て...と写真を撮って行って、やっと自分が何で好きなのかを理解するような作業である。なんだか絵画を通してこの人は自分を知るという作業までしていたのではないだろうか?過程の旅に自分を発見して、「ああ、私はこんな奴だったか」と、それは卑屈でも、傲慢でもなく、小さなエゴなんて通り越してまるで対象物として、面白がって見ていたはずである、そうでないとこんな文は書けない。こんな絵も描けない。

私は特に感心したのは、「弱さ」から作品に入り込み、全体を再構築するというところである。弱さにヒントがあるのだ!我々は自分の作品の弱さをどうしたらカバーできるかを考えた時に強いところをもっとアピールしようとする、けれど弱さにこそ自分の作品を強くする糸口がある。それはパラドクッスで真実だ。かれは弱さを面白がっていた。そして作品にもしてしまった。
さすが、マチス先生。


同じ週にメゾン・ルージュで始まったルイ・ステーのデッサン展に行った。

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メゾン・ルージュは画商で富豪の、アントワーヌ・ド・ガルベール氏の財団が作った美術館で、コンテンポラリーアートやアールブリュットの展覧会をよくやっている。友人のクロス・ノボル氏の作品のコレクションも持っている。

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ルイ・ステーはローザンヌ出身の画家、とても運の悪い人で、スイスのインテリの家族に生まれバイオリンを学び、建築家で画家、大学で絵画とバイオリンを教えていた、しかし離婚した後、裕福だった実家のお金を食いつぶしたのみならず借金して実家に迷惑をかける、で、なぜかむりやり亡くなるまで二〇年間を老人施設に幽閉されてしまう。1920年ころの老人施設なんて想像するだに恐ろしいところだったろう。文化的なものは何も与えられない可哀そうな状況で、彼は学生ノートにペンでデッサンを描いた。
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この人はただの病人ではないのは歴然だ。もしかしたら精神病でさえもなくて浪費家だから閉じ込めちゃえ。というような陰謀の被害者ではないかと思ったりしてしまう。彼の絵はすごい生命力にあふれ、ペンのタッチは正確でテーマをすごい集中力で抑えている。

P6210071.JPGこの人の不幸中の幸い、というか、救いは従弟のル・コルビュジエがお見舞いに来てくれたことだった。この著名な建築家はステーの絵を評価して、展覧会を開き、自分でも買って、不幸な従弟のために奮闘する。おかげで多くの人がステーの絵を知るようになり、今に至る。P6210054.JPG

彼は閉じ込められていたところは、しょうぶ学園みたいに理解のあるところではなくて(時代も違う)ろくに紙もくれなかったところだから新聞や本も読ませてもらえなかったと思われるが、彼は関東大震災のニュースに触れてデッサンを描いている。まるで地獄に蜘蛛の糸が垂れてくるように外界の情報が少しづつ入ってきたのであろう。それにすがるように彼は同時代性を保ち続けようとする(そして同時代、どころか時代を先読みする)P6210057.JPG

ル・コルビュジエの援助のお蔭か、絵の具と画用紙が手に入るようになると彼は指で絵を描きだす。P6210064.JPG

このすごいパワフルで苦悩している魂の叫び的な作品群を見ていて思ったのだが、もしこの人が浪費しながら美大の先生続けていたらこれほどの絵を描いただろうか?私は苦労したらよい仕事ができるという考えは間違っていると思う。しかしである、この集中度は絵に拠ってしか救われなかったつらい状況があったからこそではないか。P6210072.JPG

山口の天才画家、田上正克さんが言っていた、きれいな人やいろんな楽しいことができる人は絵は描けませんよ。何もできないから描くのです。と言っていたのを思い出す。
私が展覧会に行った日のウエブマガジンで都築響一さんがドイツのドキュメンタを評して「裸の王様」、と述べていた。効能書きがないと意味不明。ポッカーンとしらけるアート、ディレクターやらキューレーターという現代アートの巫女様が奉る「神」のアートに見物客は神妙な顔で説明文を読む、というはっきり言って退屈で、情熱も愛も、ハートもない、もっと言えば人を馬鹿にしたようなアート展にうんざりしている。というようなことを書いておられた。
裸の王様は我々で、「これはすごいんですよ!」といわれて「はあ~~っ」と恐れ入った見てる。そんな猿芝居には我関せず、とばかり必死で蜘蛛の糸にすがるように絵を描き続けた画家の絵が私の心をギュッと握りしめる。

P6210073.JPG
(詩集や小説の余白に紙不足のためかぎっしり描きこんだ本、前頁に描かれた様子。これは偶然マチスのデッサンのことを書いた本でした)

P6210074.JPG

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潮田 バルー あつ子
アツコ・バルー
Atsuko Barouh

ラミュゼ主宰 / 通訳・翻訳家

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