アツコ・バルーのブログ

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2018年11月 9日 更新

Dazzling art in Morocco

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I went to Casablanca to assist with the opening of 4 th edition of the international Biennale of Casablanca. I spent 4 days there and met a lot of very unique artists that I would have had no chance to meet at once in other circumstance.

Encounter with Amine Oulmakki
"iput on the veil of life"

His title which comes up from a Rubaiyat by Omar Khayyam , in English is "I putted the veil of the life". The first impression of the title is rather negative because the veil , for non islamic people, means to hide or to neglect women . But his meaning is the total opposite of this. This is a image of his wife's belly who was in the 6th month of pregnancy with their first baby. Amine was so excited and amused that with the title he wanted to explain the wonder of life . For him, explained Amid , putting on a veil is seeing, because in his area in Morocco women have 2 veils: one is to ocreate and the other that is inside the 1 st veil is semi-transparent. So the 2nd one is to show. In this case the veil is used to show how the person is beautiful and how the world is wonderful.

In his area people practice Sufism. This is a mystic faith from 11th century, known for the Turkish religious spinning that more than 10 minutes and sometime for hours . They believe mystic power in Sun , Moon and water. . So the image of his wife's belly is moonlike.
And what intrigued me is the connection with Rudolph Steiner who was a key person of esoteric thinking who made a huge influence to Josef Beuys and many artists who followed him, like Fluxsas, body art land art, performance art , in some the contemporary art . Steiner studied Soufism, indien mystic and Christian middle age mystics. Amin is also connected with the contemporary art by Sufism and Steiner.

His video work is black and white covered by a real veil enveloping the monitor screen . As his work was hidden underneath some steps , he made a very long veil to guide us to the work.
He wanted to make an effect by using this semi-transparent veil , that the image in Black and white has a very tiny reflection of color because of this veil. . "The veil reveals the color" said Amid.

That was a great experience for me to understand that the veil could make someone not only see, but see more . This is the complexity of the world of paradox. "Oulmakki discovered the "blind gaze" hidden within him by photographing his great grandmother as she became affected by disease which made her blind. It is through this first. photographic experience that Oulmakki found his visual language. He exhibited this series, "The work in black or the part of the shadow " only 8 years later, in 2014" (quote from catalogue)

This civilisation is effectively hiding various contradictions and paradoxes that make them mysterious and poetic.

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Villa des arts Christine Eyene:artistic director and Mostapha Romli:founding president (so busy)


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Thierry Geoffroy conceptual artist, activist. Always with blue helmet.


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Lubaina Himid Turner prize winner 2017, talking of her works since 1980's. (great emotion! and what a generously)


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Bianca Baldi , South-African artist living in Bruxelles. Her screening and poetry reading.

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Performance by Yoriyas fellows. Yoriyas is Moroccan photographer and former champion of Hip Hop dance.

2017年4月24日 更新

ソビエト革命のあだ花、そしてパオロッツィーのバラエティな芸術人生


ロシア革命から今年で100年らしい。それで様々な企画が、東京ではエルミタージュが来ていたけれど、ここ、ロンドンでは革命、ロシアンアート1917-1932
ロイヤルアカデミーのサイト

たったの15年間に起こった希望のムーブメント。

革命後、レーニンは芸術を革命の一部と認め、新しい世界の実現に希望をもった画家たちが力強いアートを制作した時代だった。しかし1922年レーニンが死にスターリンが権力をにぎると人民にわかりやすい表現でないといけないことになりアーチストは弾圧させらた。しかしそれでも彼等は命がけで制作、発表し続け、そして1932年「ソビエト共和国15年のソビエトアーチスト展」を最後にスターリンの徹底的弾圧が本格的に始まります。ソーシャルリアリズム以外の芸術は禁止されたのです。
そのたった15年間の彼等の必死の戦いをたどる展覧会でした。

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1932年の展示が再現された、マレーヴィッチのコーナー

例の32年の展覧会でマレービッチは一部屋与えられて数点素晴らしいのを壁にかけたのですが、当時の写真をもとに全く同じ絵をおなじ設営で再現したコーナーは圧巻でした。黒で塗りつぶされた真四角の画面、赤で塗りつぶされた真四角の画面、モノクロームが壁の上の方左右対称に置かれている。これは抽象絵画の到達点。と後に言われた、歴史的な絵画である。イブ・クラインより30年も前の事である。

スターリンによって芸術家のいじめは始まって、例えば食料は配給制で支給されたのですが、農民が一番もらえて次は政府の役人、芸術家はブルジョワと同じ扱いで農民の1/3しか食べ物がもらえなかった。飢えをしいられたのです。彼等は工業や農業を讃える絵を描かせられるのですが、そこにも抽象画の描き方、あるいはかれらの個人の思想や美に対するセンスを入れないではいられなかった。多くの芸術家がそうやって逮捕され、拷問の末死刑、あるいはシベリア送りになった。マレービッチだって逮捕され拷問を受けた。そんな命の危険を犯しながらも彼等はやり続けた。と言うことに芸術家の業をかんじます。彼等は例えば強制移住の犠牲になった、とかではなくて、どんな危険があるか理解していながら巨大な権力の壁に向かって勇気ある武士のように筆ひとつふりかざして真っ正面から戦ったのです。

カンジンスキー、シャガールなどもそれぞれ革命後に希望に満ちてソビエトに戻るが、7年後、スターリンが権力につく直前にヨーロッパに去って命拾いをした。しかし、1907から22までの5年間はソビエトで制作していた。彼等の革命絵画も展示されていた。

なぜ多くの芸術家が殺されたのか?それはスターリンが実は芸術の理解者でだからこそ芸術が社会に及ぼす力を理解していたからだ。と解説に描いてありました。なんと彼は理解者であったが愛してはいなかったのだ。そしてスターリンが恐れた物は、個人の自由。芸術はそれぞれの人の心に訴えかける自由への渇望ではなかったか。

そして芸術家達は命と引き換えに作品を発表し続けた。歴史の中で自由の為、思想のために殺された人たちは数多くいるけれど、彼等はそうするしかなかったのであろう。芸術と命がイコールで繋がっているのだから。

ほんの15年の間に花開いたソビエト革命絵画。あらためて芸術の持つ力に圧倒された。

展覧会の最後の部屋でスライドショーがあり、スターリンに寄って逮捕された人々の延々とした正面と横顔のポートレートが続く。「なにがし、27歳、看護師、死刑。」というようなサブタイトルがひとつひとつについている。農民あり、教師、エンジニア、あらゆる職業、年齢の顔が凄いインパクトで写真展としても強烈であった。


(筆が遅すぎてこの展覧会はもうおわってしまっているのですが。しかも会場では写真禁止だったので画像がないの申し訳ないと思いつつ。)

もう一つ、これはまだもう少しやっている展覧会です。

エドワルド・パオロッティー 
Eduardo Paolozzi @White chapel gallery 16February -14 May 2017
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展覧会のサイト


紹介ヴィデオ

この人の作品は何かの展覧会でクロームの彫刻があったのしか覚えていなくてしかも展覧会のポスターをみて最近流行のテクノ系のグラフィックアーチストかと思っていたのですが、評判がいいので行ってみたら20世紀の重要なアーチストだと言う事を発見して驚きました。とにかくこの人多作。そして変容を恐れない勇気と好奇心がみなぎっています。加えて叙情的な表現ができる上にエンジニア的な高性能力にも長けています。

ポップアートの先駆者。

エドワルド・パオロッジはスコットランド生まれのイタリア移民の二世。両親はエジンバラでアイスクリーム屋さんを営んでいた。美大で勉強した後23歳で最初の個展をロンドンで開く。

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これがその時の作品、既に迫力がある。かなりピカソを意識しているかも。

個展で作品が売れたのですぐにパリに勉強に行く(1947年)そこでジャコメッティ、ブランクーシ、アルプ、ブラックなどと知り合いになる。パリで過ごした2年間は彼の一生に大きな影響を及ぼした。とくにジャコメッティの影響が後の拾って来た物をくっつける彫刻のヒントになったという。1949年にロンドンに戻る。
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こんな感じ、とてもよい。

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それがあっという間にこういう風になって(1950年頃から)同時にポップアートの試みが始まる。

先駆者そして走り続ける

1947年から1952年の間にBUNK!と言う名前の45枚のコラージュを作る。
一枚目がこれ、『私は金持ち男のおなぐさみ』どう見てもポップアートでしょ。
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彼自身はシュールレアリズムだと言っていたそうですが。そしてもちろん彼が正しいと思いますが、ポップアートの先駆者である事は間違いないです。
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こんな素敵なコラージュを作っていた。確かにコラージュはシュールレアリズムの連中の十八番だが戦後のアメリカ文化がどどっと流れてきた状況で雑誌の切り抜きをすれば、そしてセンスの良いパオロッツィがやるとこういう風になる。もうそれをポップカルチャーと呼ぶかどうかはどうでもいい気がしてくる。シュールの連中だって印刷物やら何やらを拾い集めてきたのは同じことだから。

彫刻だって休む事なく作り続け、テーマは「人間と機械」にだんだんしぼられて行くかに見える。しかしこの人間と機械というテーマは産業革命以来のテーマなのだろうか。昨日アツコバルーギャラリーで終了した「バッテラ展」の寺田氏の描く「天女と機械」韓国人アーチスト イ・ブルの「サイボーグ」など多くの作家が扱うテーマである。この人の場合はうがった見方かもしれないが、合理的な考えと叙情的な気持ちが同居する人間の頭の中を描いているのではないか。あるいは機械に支配されていく人間の姿。まあ、幸せそうな顔はしていないので自然から遠ざかって鬱になっている都会の人間を表していると見ていいだろう。

そしてやってくるのがポスター。私は横尾忠則さんのポスターかと思った。時代を見ると1960年代後半、横尾氏が天井桟敷のポスターを描いたのが1968年頃なので同時代である。どちらがまねた訳でもあるまい。

以下、続く。フランス大統領選挙の結果を見てやはり。とがっかりしたので、少し筆を置いて前半のみアップする事にした。

2017年3月25日 更新

フェアーを去り街に出よ。ギャラリーもシェアリングするロンドンからの呼び声

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東京アートフェアーが終わったばかり。最近はアートビジネスが大流行しているようで世界中で毎週末にどこかの町でアートフェアーが開かれる。私たちギャラリーにとって世界に我々の推薦するアーチストを売り出したい気持ちは山々だが費用がとんでもなく高いのがハードルになっている。

世界の主要都市で開かれるフェアーでは一番小さいブースでも70万から80万円、その上スポットライト一つでも持ち込みが効かずフェアーにレンタルしないといけない、その金額がまた高い。ざっと合計で100万円はかかる。海外のフェアーだとそれに加え、輸送費、税関代、出張費など入れると200万円。格式の高いフェアーはのみならず出展者を書類選択する。どのアーチストを扱うのか、何年前から店を出しているのかなど。質問に答えお伺いを立てないといけない。
もちろんクオリティーを高くして優良コレクターを呼び込みたい、というフェアーの最も理解できるが、知名度がまだないギャラリーとアーチストにとってアートフェアーに打って出るのは大変ハードルの高いことなのだ。しかし打って出ないと新しいファンがつかない。というところでどこも悩んでいるのが現状である。

ギャラリーのシャアリングとかスワッピングとか

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ダイナミックに駆け回るヴァネッサ・カルロスさん

ロンドンの若いながら攻めるギャラリー、「カルロスーイシカワ」のヴァネッサ・カルロスさんは「コンド」と名打って多くの人が漠然と夢に描ていたことを実現してくれた。2017年の1月半ばから5週間ほど、ロンドン市内の15のギャラリーが世界中から集まった36のギャラリーに店をなんと無料で明け渡した。東京、上海、グアテマラ、オスロ、サンパウロ、ベルリン、ニューヨーク、などなどから集まった36件の若いギャラリーたちはアートフェアーの出展フィーに悩むことなくロンドン市内で店がはれたのだ。しかも5週間の間も無料で。
15件対36件では数が合わない、と私は最初に思ったが、まずロンドンに出したい人が多かったのだろう、そして全く違う国のアーチストを1つの場で共演させることにも意義があったのかもしれない。しれない。などどいい加減なことを言っているのは実はこの期間私は病気で寝込んでしまい全く外に出られなかったのだ。残念なことに・・・なのでリポート出来ていない。
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エマリン
それでもめげずにコンドの話に戻ると、もちろん、ただで受け入れたところは次回はただで先方の街でコンドが開かれる時には参加できる。ヴァネッサ曰く、「この計画で私を始め誰も儲けてはいません、でもお客さんもネットワークもシェアーして広げていくので皆が豊かになります。」そして一番得をしているのが客である。ロンドン市内で無料でこれらの若いアートが見られるのだから。

このように金銭ではない見返りを求めて行動する人たちが着実に増えている。

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参加した、エマ・タルボットの作品

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カルロス・イシカワの出展したオスカー・ミュリロの作品、観客が混じって座っていると作品がどんどん生き生きして変わってくるから面白い。手前には他の作家のオブジェも。
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ちょっとしたアートフェアー状態。

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若い人の若い作品が、自由解放区に解き放たれている感じ。

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これは昨年、第一回目のコンドの時のようです。1月なのに元気ですね

エスタブリッシュではない、何者になるかわからないカオスの力を集めるだけで良いと思う、だってそういうのないでしょ日本にも東京にも。

取り澄ましたギャラリーにはないものを

アートはいくつもの相対する価値観や金銭と貧困にまみれていて多くの人に敬遠されてしまう。アーチスト自身も若いうちはどうするべきがたっぷり悩むくらいだから一般の人が嫌になるのは当たり前である。そしてギャラリーは冷酷でツンとしていて高慢な印象を与える。(本当に高慢な店もある)でも4年前から始めた私を含め私の周りのギャラリーは皆アートの与えてくれる幸せを多くの人に味わって欲しい。という、どうしようもないお人好しのお節介からズブズブとこの道にはまってしまう人ばかりである。著名作家のリトグラフィーを扱うところはいざ知らず、特に無名アーチストを扱うところは寛大な心を持って世界中の人に感動を広めたいと願っているのである。そんな連中が場所を提供しあってサークルがどんどん広がっていくときっと素晴らしいことが起きる。その中から未来のバスキアが現れていつかシャンペン&キャビアの世界に旅立っていくかもしれない、それはそれでめでたいではないか。大事なことは我々は「そこにいたのだ。まさに誕生の瞬間に立ち会ったのだ」ということ。

アートネットというウエブマガジンに詳しく書いてあるので英語が面倒でない方はどうぞ読んでいただきたい。
https://news.artnet.com/market/vanessa-carlos-on-condo-london-2017-788567

Condo,
http://www.condocomplex.org

2017年1月18日 更新

井上 洋介 リヒャルト・エルツェ、2016年マルセル・デュシャン賞受賞候補、カデール・アティアのヴィデオ作品 そして家族の死


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戦争の思い出とナンセンス


井上洋介は1931年に東京の下町で生まれ、2016年に始めに亡くなられた作家、寡聞にして、クマのこウーフなどの絵本でしか私は彼の絵を知らなかったのだが京橋のアートスペース繭の梅田さんで見せていただいた彼の絵画作品の力づよさにガーンと一発食らった感じで急遽展覧会を開くことにした。とは言ってもこのブログがアップされる頃にはすでに展覧会は終了している。しかし3月に新宿区大京町のアートコンプレックスセンターにてまた違う大規模展が開かれるので是非そちらに見に行かれると良いと思う。本当に素晴らしい作家である。

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私は井上さんについて全く無知だったので過去のインタビューをネットで読ませてもらって説明としては彼の絵画をなんとなくわかった気がしている。こんな感じだ。(以下抜粋)

「絵本のお仕事と併せて、油彩を中心としたタブロー(絵画)の制作もずっと続けてらっしゃいますが、独特な世界観を持つタブローの発想の源は一体どういうものなのでしょうか?


井上:
美術学校の卒業制作辺りから、なんとなく現代の不条理をモチーフにしたいという気持ちがありました。
その後、徐々に、自分が少年期に体験した爆弾の恐怖や飢えといった記憶が思い起こされて、今ではそんな記憶がタブローの発想の源となっているような気がします。
戦争の災難とか、自然の災難も含めて、人間が受ける苦痛というのは、時代によって変わるものでは無いような気がします。人間が被る災難を描きながらも、そんな災難の対極にある「ナンセンス」をいつもタブローに含ませたいと思っています。
まずタブローを見て、そのナンセンスさを笑って欲しいと思います。そしてその後、人間が被ってきた災難をふと思い出してくれたらな・・・と思っています。
http://www.tekona.net/pr/interview/17.php

彼は東京の空襲を経験している、それも下町の出身だから被害がひどかったに違いない。戦争の苦しみや恐怖を思い出しながら描いた絵なのだろうが対極にあるナンセンスな笑いがそこにはある。

二度の大戦に駆り出されて

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ちょうど同じ時期、ロンドンにある変わったギャラリーではリヒャルト・エルツェという二つの世界大戦に駆り出されたドイツの画家の回顧展があった。
ミカエル・ウエルナー ギャラリー は店舗ではなくて高級住宅街のお屋敷内にある。ある日前を通っていて小さくギャラリーと書いているのでブザーを押してみたら重厚な邸宅の中に導かれた。威圧的とも言える暗いマホガニーの階段の手すりの横で受け付けの年配の女性が刺繍をしていた。彼女は目を上げてにっこり笑った。そこで私はもう、この画廊がかなり好きになってしまったのだが。すごく変わった(良い意味で)全く売れ筋ではない作家の展覧会をしていたのでそれ以来マークしている画廊である。後で聞くとのこのウエルナーと言う画廊主は本人もコレクターでニューヨークでも店を開いている、ロンドンの店は最近開いたが、他の店にはない物を見せたいそうだ。こういう成金が嫌うようなタイプの作品を平気でおいているところを見るとフランスのアントワーヌ・ガルベール的なお金持ちの趣味人だと思われる。そして、普段見られない作家を発見させてくれる嬉しい場所である。
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新聞の記事から抜粋すると
エルツェは1900-1980生前は大きな国際展で活躍したが今はメインストリームから忘れられた作家になっている。マックスエルンストと共にシュールレアリズム運動に参加、彼の作風にはドイツロマン主義の影響が見られる。彼は第一次大戦に駆り出され瀕死の思い出で生き延びてパリで30年代のアート運動に関わるが、ドイツ国籍のままだったので第2次大戦がはじまると国に連れ戻されまたもや戦争に加担させられる。(今度は地図担当の事務職)

マックス・エルンストがあくまで画家だったのに対してエルツェはイヴ・タンギーやロベルト・マタに接近したりしたそうだ。そしてエルンストの初期によくやっていたデカルコマニから彼は独自に発展してパレイドリア(抽象的な形から具象的な形を見ること)もっと進んで灰や雲の世界に何かを夢想する絵に変わっていく。彼曰く、カフカの人物にインスパイアーされている、と言っていたそうだ。というのがつまみ食いをしたイギリスの新聞表である。

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東京の下町で、ドイツで同じ戦争の西と東で苦しんだ2人の画家が描いた世界を対比するとかなり興味深い。

井上は苦悩の対極にあるナンセンスで笑って欲しい。と言っていたが、あながちナンセンスは対極ではなくて戦争自体ナンセンスである、国家が犯せば大量破壊でも殺人でも無罪。そして理由もなく爆弾を落とされて焼かれる人たちの死もナンセンス。笑っちゃうしかないくらい訳がわからない。

かたやエルツェは真面目だから、(というのは勝手な型にはまったドイツ人評だが)ひたすら悲しみに頭を埋め、灰の中に面影を探し続ける。それははてしない記憶の作業。見えるような見えないような、怖いような懐かしいような。彼はとにかく我々に「目を凝らす。」という作業を促す。

墨流しのような灰汁のような不思議な画面に私はどんどん惹き付けられて入っていってしまう。そこは夢の世界の入り口で見る者たちは中にはいってそれぞれが独自の体験をするように仕掛けられている。

サイ・トゥオンボリーの天才


さてパリに移動して堂々たるサイ・トゥオンボリーの回顧展をポンピドーで見てガーンどころではない、絵画の王道を見せてもらった。いや、これはこれはもう絵画ではない、宇宙だ。と下の娘が行っていた通り、キャンバスと絵の具でここまでできるのだろうか、これは奇跡としか言いようがない。彼のような作家が近い時代に地球に存在していた事自体、我々は感謝しないといけない。そしてそれを見せてくれる美術館があることも素直に感謝するべきである。

まだ興奮冷めやらぬ頭をクールダウンさせようと同じ館内でやっている今年のマルセル・デュシャン賞の候補の展覧会(無料コーナー)に入り込んで実は少し休もうと思った。ところが候補の中の一人カデール・アティアのヴィデオ作品にこれまたのめり込んでしまった。

心と体の傷の修復の為のアート、カデール・アティア


reflechir à la mémoire (記憶について考察する)と言うタイトルのインスタレーションとヴィデオ。特にこのヴィデオに見入ってしまった。
事故や戦争、テロで片手や片足になってしまった人たち。よく聞いた事がある。失ってしまって、存在しないはずの手や指が痛かったり痒かったりして困るという。それを「肢体の幽霊」と呼ぶらしい。彼はこの事に注目して外科医、神経の専門家、心理学の研究者らのインタビューを通して痛みや失う。ということが何かを探っていく。

ヴィデオのところどころに出てくる絵画的な静止画映像で公園で立ち尽くしている短パンの男性、教会のベンチで手を組んでいる女性、何人かの人物が現れて消える。途中までなぜそのような人たちがいるのか意味がわからないでみているのだが、後半になると実は彼らは体の中心に鏡を置いている、と気がつく。もうなくなった片手や片足を鏡に映して見ると両方が元どおりにあるように錯覚する。なぜ、そんなことを、という答えを研究者(セラピスト)が説明する。「失われた体の一部を弔うための喪の作業の一つなのです。」と。

そこで考える。弔う。とはどういうことなのかと。喪の作業、とかグリーフワーク、モーニングとか心理学では言うらしい。

あああ、そういう事だったのか、とショックを受ける。と同時に片手を失った男性の証言が感動と勇気を与える。彼は少年の時に片手を失なってしまったがその事について深く考察し続け、片手でも、今では神経外科医として患者の為に尽くしている、彼が言うのだ、「自分は片手を失っていなかったら医者にならなかったろう。」と失う事で充実できた。というのだ。

アティアはインタビューでこんな事を言っている。自分の仕事にはいつもオクシモールと言う観念がある、という。オクシモールとは正反対のことをくっつけて言う、ようなことである。

井上、エルツェ、そして今40代のアティアが提言したのは愛しいものを弔うという喪の作業であった。と偶然の3つの出会いが一本の糸で結ばれた。

そして、一連の展覧会を見てから1ヶ月後、自分自身の連れ合いが急に亡くなった。心臓の動脈が三カ所も梗塞していたという。医者嫌い、薬嫌いで82歳で亡くなるまで薬を飲んだことがなかった。最近疲れているな、とは思ってはいたが、急にこうなる事とは予想していなかった。12月22日の朝に具合が悪いと言うので娘が医者を呼ぼうとしたら呼ばないでいいからだいじょうぶだからとしきりに止めたのだが。息ができなくなり救急車で病院に運ばれて人工的に昏睡状態のまま5日後に心臓が止まった。

私と息子は日本からとにかく一番早い飛行機で駆けつけ娘たちや前の結婚の息子、親戚もフランス各地から集まって来ていた。毎日ICUに通ったのだが、とくに2人の娘たちはなんとか目を覚ましてもらおうと病室で音楽を聴かせていた。時々まぶたや足先がピクリと反応したらしい、涙も流れたが意識があったのかはわからない。それでいよいよ心臓が弱くなってきた時も娘たちは祈るように彼の歌のCDを流していた。それでも4時間ほどしてフーッとろうそくの火が消えるようにモニタースクリーンの心臓の波が平らになってしまった時、流れていたのは彼の昔の曲でサウダージという曲だった。

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ピエール・バルーとバーデン・パウエル

もう50年前の録音で、ある日うちの屋根裏で発見されたのをCDにしたものだ。若きピエールとバーデンパウエルがギターと歌、そして語りでサウダージの意味はなんだろうと語っているものだ。そこでピエールは言っている、「サウダージというブラジル特有の美しい表現がある、自分はずっとフランス語でなんといったらいいのか探していた、そして見つかったのがこの言葉 manque habité だ。」まさに50年前の彼がそう言っている時に心臓は止まった。
manqueというのかミスと同じ意味、ない、とか、失う。ということだ。habitéは反対にいる、とか住んでいる、ということだ。これはオクシモール、つまり、「いて・いない。」いるといないは反対のこと、でも、二つは表裏一体で、しかも、いないと言う事実があって、いるという感覚がもっともっと強くなるのだ。
あなたはいない、けれど心の中にはいつもいるんだよ、そんな切ない気持ち。不在は強いほど存在も強くなる。

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いない。という絶望的な状況。同時に胸いっぱいに存在しているという満たされた気分が同居している。それは灰汁の中になつかしい面影を見たりするのと同じかもしれないし、切断された指の先が痒いのとも似ている。ないけどある気分。

それではすべてはナンセンスさ。と大笑いしている井上の態度はなんなのだろう。そこに日本人特有の、とかは絶対言いたくない。なぜなら特有の物などないし、人生の半分をフランスで暮らした私はいったい日本人特有の何があるのだろう、と言う質問になる。

しかし、井上のおチャラカしは彼独特のカッコ付けと言うかスタイルである。例えば「あめ玉」という作品をみてほしい。これはどう見ても化け物、恐怖の姿で、これにあめ玉、と言う題を付けて「なあーんだ、」と相手を油断させるのが彼の術と私は思っている。それに、江戸っ子である私にはわかるのだが、井上は怖い物を怖いと言ったり悲しい事を悲しい、と言うのが嫌いなのだ。悲しみは笑いで表すに限る。とか思っていたかもしれない。「泣くのはいやだーわらっちゃえー」ひょっこりひょうたん島のような人なのだ。

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手前が「あめ玉」、実はモンスター

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おかしくてやがてこわい井上の顔たち

不在を内包しつつ我々は生きている。不在を強く思えば思うほど存在は強まり、それが過去に我々を引っ張るのではなく目の前に進んで行く力になって行く。と言うのはアティアの解釈であり、井上もエルツェもそして私自身も痛感しつつある。

アティアのインタビュー(フラ語ですみません)
https://www.centrepompidou.fr/cpv/resource/c4r9A7e/rn9K4A

アティアの以前の作品でゴーストと言うタイトル。不在を強調する事で存在の力を表した、と彼は言う。
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2016年10月21日 更新

我々にはサラヴァが必要だ(その2)

フランス発の世界で最も長生きなインディレーベルサラヴァレコードは今年の秋で50周年を迎えた。今渋谷のアツコバルーで開かれている展覧会ではそのレーベルの歩みと創作の哲学をイラストや双六、当時の貴重な写真やビデオで辿っている。

 http://l-amusee.com/atsukobarouh/


今回はサラヴァを始める前、ブラジル音楽に影響を受けた時代から話を始める。


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・・・・・・・・・・

と、ここからがサラヴァレコードの始まりです。この先を読みたい方は1000円でカタログをお買いになってくださいませ。アツコバルーで販売しています。

ほんの小さいレーベルですが好きなことだけやっていてもちゃんと存在し続けることができるんだ、という証明として、好きなように生きたい皆さんの励みになればと今回の展覧会を作りました。

まだ6日間やっておりますので是非見に来てください。

2016年10月18日 更新

我々にはサラヴァが必要だ(その1)

2016年11月6日まで開催のサラヴァの50周年を企画した。

2年間かけてクレマンチーヌ・デルディルと資料を探し、我々なりのサラヴァ像を探ってきた。そして我々が導き出したサラヴァのエッセンスとは楽天主義。今我々に一番失われてしまったあっけらかんとした楽天主義だった。彼らは「情熱さえあれば生きていけるよね。」と信じて本当に生きてきた。そして素晴らしい音楽を残してきた。

そんなことがあったのか、許されるのか?キャリアのことも就職のことも考えずにただ自分の好きなことだけやってきた人たちがいた。なんで今、そういうことができないのか?時代が違う。とも言えるが違うのは我々がそう思い込んでいるだけではないのか?就職しないとフリーターと言われ、周りから心配されてしまう。世知辛い社会だ。でもそうしているのは情報に汚染された自分たちではないのか?人も社会も変わっていない。ただ締め付けが厳しいだけ、でも、それでもなんとか道はあるのではないか?と思わせる何かがサラヴァにはある。

このあまり人に知られていないフランスのインディレーベルはピエール・バルーによって50年前に作られた才能と創造のラボラトリーである。おおらかで、ごった煮で、バリアーのないこの素敵なレーベルの50年。

ユートピアという人もいるだろうし、ヒットチャートに乗るような曲がないから無視する人もいるだろう。しかし、今アートの道に進もうという若者、また進んだものの袋小路に入ってしまったと悩んでいる人に是非見て欲しい。自分を信じていればいいのだよ。とサラヴァは言っている。

 展覧会のあらすじともいうべきカタログを作ったので以下に掲載する。
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2016年9月22日 更新

真夏の夢か、夢みる人の絵、2展

夏の間の展覧会は力を抜いているとことが多い、どうせツーリストばっかだし、アートのシーズンではないから。シーズンとは10月11月のこと。そんなシーズンオフの中でもみっけものの素晴らしい展覧会に出会った。

パリのメゾンルージュは稀代のアートフリークが巨万の富を相続で得たことで実現したアート好きのパラダイス。アントワン・ド・ガルベールの好みで、つまり彼の好みだけで有名、無名関係なく見せていく、見せ方もいつもセンスがいいからファンがたくさんいる。私もその一人だ。あと次回はディ・シルバのアールモデストの展覧会です。セトでやったヘタウマ展のところ、あそこの館長さんです。
ラ・メゾン・ルージュ

今回彼が見せたのはウージェン・ガブリチェンスキー。Eugen Gabritschevsky(1893-1979)

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パスツール研究所で伝染病の研究をしていた頃?

彼はパリでは猩紅熱のワクチンの研究、のちアメリカのコロンビア大では遺伝子の研究をするが27歳の時に不審な行動が始まり分裂病と診断され精神病院に入る。以前から彼は趣味で絵を描いていたが印象派的なものだったらしい。病気になってからはあらゆる世間の傾向から解放されて自分の夢の世界と科学の基礎を交えた絵画になっていく、しかし、年を重ねるうちに科学のアプローチは消えて純粋に彼の絵画を描くようになったという。現在では彼の記録は弟のジョルジュとの文通でわかる、弟は兄を一生サポートし続けたという。その弟がアールブリュットの大家、デュビュッフェに兄の絵を見せたい。と頼むが実現せず、2年後に病院の院長が院内で展覧会を開き、再三頼み込んでこの大家に絵を見てもらう。するとデュビュッフェは自分でも10点ほど買い込み、これまたアールブリュットコレクターで画廊主であるあるアルフォンス・シャーブに見せると彼は大量に買い込んで、展覧会も開くようになった。それからはフランスやローザンヌの美術館に収蔵され現在に至る。13524420_10153840427128335_3905637522616444657_n.jpg
111777633_o.jpg白い四角はライトの反射です
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レース編みのような、聖霊が描かせた絵

もう一つの展覧会はロンドンのクート(私のルビ間違っていそうですCOUTAULDが正確)で開かれていたジョージアナ・フートンのスピリチュアル絵画展 Georgiana Houghton (1814-1884)

この女性は聖霊と交信できる巫女さんのような人で、聖霊が彼女に乗り移ってこれらの絵を描かせたそうです。
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キリスト様が出てきて自分の顔を描かせたそうです。
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絵の裏には細かい説明のようなものがギッシリと

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聖霊が出てきてジョージアお描き、と言って彼女に描かせる
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これは細部です、あまりに細かい線が交差していて。。。
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これも細部です、会場には大きな虫眼鏡があってじっくり見えるようになっていた
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またもや細部、神は細部に
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多分一番最後に加えられた白い細い線がまるで天使の囁きのようで、ひたすら女性的で美しい。やはりなんてたって19世紀だよね、などとつぶやきながら、聖霊でもなんでもいいけどこの人は描いている時最高に幸せて祝福された時を過ごしていたと確信した。

この2名を比べるのはおかしいと言えるかもしれないが私に言わせれば神の園、エデンの夏の午後、木陰でスヤスヤしている間に描いたような絵を描いていると思うのだ。

2016年5月 1日 更新

戸川昌子さんの思い出


出会い

私が青い部屋に初めて行ったのが1984年の事だからもうかれこれ32年のお付き合い、と言うことになる。きっかけは連れ合いのピエール・バルーがもらって来た『る・たん』と言う小さなシャンソンの冊子だった。大野修平さんは音楽ライター。シャンソン好きが嵩じて雑紙を出していた。ピエールが最初に日本に来た当時からフランス語の堪能な大野さんはインタビューをしている。そのインタビューが載る冊子をくれたのだ。

日本語の全く読めないピエールは横文字で書いてる部分だけを拾い読みしてこの『Chambre des chansons』とは何の事か、と私に聞いて来た。それは広告の欄で、都内でシャンソンが聞ける店が載っていた。フランス語の脇には日本語で「青い部屋」と書いてある。「ああ、これは有名な歌手で作家の人がやっている店よ、でも私は行った事がないわ。なんか特殊な感じのする店だから」と、私。「じゃあ、行ってみようよ。」と、彼。当時まだ20代の私は、勝手に行くべき店、付き合うべき仲間を決めていたような狭い人生観を持っていたと思う。でも興味は津々で先達の登場を待っていた。とにかくピエールに好奇心に引っ張られ、青山学院の裏手にある店を初めて訪れた。

店は本当に特殊な感じで、地下の薄暗い店内には電球に女性のズロースが傘の代わりにはかされていて、壁面には入り口にバーカウンター、奥はステージになっている。左の壁面は鏡で右の壁面には大きなエディットピアフのポートレートが6枚かかっている。床は絨毯で壁際にはビロードのソファー、小さいテーブルの向こう側はやはりビロードのスツール椅子だった。
男女の中年のお客さんが三々五々座っていて、ホステスさんと見られる女性たちはほとんどがショートカットで白いシャツにネクタイ、背広を着て、つまり男装していた。上品に着物を着こなしている女将のような人(戸川さんのお姉様)が私たち達を案内して席に着くと、何やらカンツオーネを歌う男性やさっきまでお客様にお酒を注いでいた男装の女性が、はたまたひらひらのフリルがついたロングドレスの女性が代わる代わる3曲ほど歌ってはお辞儀をし客席に戻る。すると最後に戸川さんが登場してショータイムはクライマックスを迎える。

強烈なるディーヴァ

彼女はそこにいる『客いじり』が大の得意で特に背広姿の男性客をからかい、皆を笑わせながら会話が盛り上がって来た頃、突然歌いだす。その入り方が絶妙かつダイナミック。新鮮であった。彼女にとって歌も会話も一緒のことなのだ。そして人生と歌がイコールで結びついていた。その事が貴重で素晴らしく、実はほとんどの歌手にできていない芸当なのだ。音程の正しい人やうまい人は山ほどいる。しかし自分の人生と舞台の上の自分が同一線に乗っている人はまれである。私が戸川さんを尊敬しているのはまさにその点である。それは売れているとか有名とかと全くレベルの違う人の品格の話なのだ。

ゲンスブールの歌『リラの切符切り』を日本語で歌い上げる戸川さんの身振り手振り、客を湧かせるテクニック、それは思えばピエールの青春を過ごしたパリの下町、ピガールのシャンソニエの雰囲気だった、と思う。当時ピエールを日本に招待してくれたレコード会社や共演した素晴らしい日本のミュージシャン達の洗練とは遥か遠い。ピエール自身はシャンソニエの歌手とは全然違うけれど、暖かさ。と言う面では戸川さんに近い物を持っている。そこで戸川さんの魅力に一発で参ってしまい、それから東京滞在中は毎週通う事になる。

青い部屋で歌っていた歌手達は私に言わせれば下手(ごめんなさい)だった。第一フランスで戦前や戦後すぐの時代の古い歌を重い歌い方で日本語で歌う、邦訳は字余りで言葉のリズムが無視されて意味を重要視しているから歌として弾まない。服だって当時80年代、ヨージヤマモトやコムデの全盛期にピンクのフリルである。女性歌手だったら大貫妙子さんとか竹内まりやさんとかの時代である。この時代錯誤の不思議な人たちはなんなの?戸川さんの圧倒的な魅力はわかるが、他の歌手達をどうしてあなたは好きなの?キッチュで面白いの?と聞いた事がある。もちろんフランス人で古い歌を歌っていたら自分は聞きたくないけど、彼女たちが遠い日本で一生懸命フランスの歌を日本語にして歌っている、その真剣さに打たれるんだよ。と彼が言った。当時はそんなものか?植民地主義の裏返しでは、と疑っていたが、今や日本のアニソンをヨーロッパの人が歌っている時代になった。それをなんだかくすぐったい気持ちがするのはわかる。真剣で可愛い、と思えるのだろうか?私にはよくわからない。

ある晩、青い部屋でまだ20代、と見られるワンピの女性がシャンソンを歌っていたら酔っぱらった男性が彼女に抱きついて来た。彼女は歌をやめて、男性に『やめて下さい』と頼んだ。その時店の奥から怒声が響いた。戸川さんの声だった。『歌やめんじゃないよ。抱きつかれたら抱きしめて歌ってあげんだよ。それができないならシャンソンやめちまえ!』まさにそれが戸川さんの生き方、やり方だった。うまい舞台役者と同じ。どんなパプニングが起きても自分の芸に取り込んでしまう。そして面白いステージを提供する。ああ、やはり戸川さんは本物だな。と感心した。


都会ッ子でダンディー

彼女はいつも真っ赤なオープンカーに乗ってやって来た。あのトレードマークのヘヤーとトンボ眼鏡でど派手なフィアットは目立っていてかっこ良かった。「これは私の唯一の贅沢なのよ。私も若い時は家がなくて赤ん坊が小さい時にはこのクルマのアンテナにおむつをを干しながら走っていたわ。」そのセンスが私は大好きである。港区南青山生まれの彼女は都会人でダンディーだった。女性でダンディーと言うのも不思議だが、成金のピカピカを嫌い、古いスポーツカーに、ヨレヨレになったドレスは皆オートクチュール、お金持ちではないけれど貴族的な所と昭和一桁の苦労人のハートを持っていた。でも苦労で売るのは彼女の中では禁じ手だった。一度、美輪明宏さんの本の話になって苦労話がたくさん書いてあるけど、あんなのは当たり前、皆、そうやって来たのよ、でも私はそういう事を言うのは好きじゃない。と言っていた。そういうスマートさが最期まで自分の病気の事も痛みも全て黙ったまま知らん顔して歌っていた事に通じている。

お世話になった若い才能は山ほど

彼女は多くの若い才能も育てた。青い部屋は2000年頃改装され、翌年、ソワレが店長になった。しばらく日本に戻っていなくてある時青い部屋に行ったら驚いた。すっかりきれいになって、しかもとても良いアイデア、Vipルーム、と言うかガラス張りで、音楽も少しは聞きたいけどおしゃべりの方がしたい人たちが気兼ねなくおしゃべりできるコーナーができていた。これは大変ありがたく、じっくり音楽を聞きたい人はおしゃべりに邪魔されず聞けるから、お客さんはVipルームを出たり入ったりしながら一晩すごせた。しかし驚いいたのはそればかりではない、男装の歌手もカンツオーネの男性もいなくなって、反対に若くてアバンギャルドな連中が新しい店長、ソワレに連れられて出入していた。戸川さんはそんな連中を目を細めて見ていて、皆を励ましたり、若いミュージシャン達をバックに自分の伴奏を頼んだりして彼等を助けた。

それから閉店になってしまう2010年まで青い部屋は東京で一番面白い夜のたまり場になった。私の娘マイアが17歳で初めてネオちんどんかぼちゃ商会に出会ったのも戸川さんが電話で私たちに面白いバンドがいるから是非聞きに来てくれと言ってくれたからだ。ソワレをはじめ、かぼちゃ商会、エミ・エレオノーラ、レ・ロマネスク、犬のジョン、ヒゲの未亡人、エルナ・フェラガ〜モ、信太美奈、Vivienne佐藤、マチルダ、to R マンション、日比谷カタン。数えきれない才能とオリジナリティーに溢れるアーチスト達と交わる事ができた。戸川さんがいなかったら会えなかった人たちだ。

連れ合いのピエール・バルーは彼女の事をいつも、フェリーニ監督が彼女でに出会っていたら必ず彼の映画に出演を頼んだろう。と言っていた。彼女の堂々たる存在感、そして心の広さ、つまらない奴、つまらない事を洗い流してくれるような魔法を彼女は持っていた。彼は自分のドキュメンタリービデオに戸川さんを登場させている、(かぼちゃ商会のフランス公演を追ったドキュメンタリー「サヴァサヴィアンBis」)日本に着くとまず一番に行ったのも青い部屋である。マサコに会うと日本に来た。と言う感じがする。と言っていた。ピエールの描くポエジーの国、ユートピア、ニッポンにはマサコが不可欠だったのだ。

悔いのない豊かな人生

戸川さんも私たちの事をとても大切にしてくれて、我々が店に行くと絶対お金を払わせてくれなかった、ベビーシッターが見つからず、幼いマイアを度々連れて店に行ったがそのたびにスタッフが走ってケーキを買いに行き、フランス語で歓待してくれた。そして必ずピエールと二人で『ラストチャンスキャバレー』をデュエットするのだ。彼女の歌うラストチャンスキャバレーは魅力的でまさに彼女の人生と同じ。『この世界の迷子がたどりつくラストチャンスキャバレー。あどけない顔して踊ろうよさあ。乾杯!』(日本語の歌詞)と歌う彼女は歌と人生が結びついた素晴らしい本物だった。

2016年の正月に日本に帰った時にステージを拝見したら、戸川さんはいつものようによく声は出ているしは元気でおしゃべりだったので安心していたら、最後まで舞台を勤め、人には言わず黙ってホスピスに行き、さっさと逝ってしまった。彼女らしいダンディーな去り方でであった。

戸川さんの筋を曲げない生き方は私のお手本だし、皆が集まるハブ。年齢も人種も関係ない音楽とアートの店作りは、伝説の1970年代のサラヴァのライブと青い部屋がその基本にある。渋谷のサラヴァ東京と同じビル5階のアツコ・バルーは同じスピリトとのもとに作られた箱だ。私は戸川さんの次の走者である。と自負している。自分らしく生き、若者たちを助けて彼女みたいにさわやかに生きたいと思う。

2016年4月25日 更新

日本では、いやどこでもお目にかかれない絵

ヒルマ・アフ・クリント

今ロンドンのサーペンタインーギャラリーで開催されている絵画展、Peinting the inseen-Hilma af Klint (見えない物を描く)ヒルマ・アフ・クリントが素晴らしい。この人の名前とシュタイナーがくっつくとああ、あの2013年のヴェネチアビエンナーレの展示であった人ね。とわかる。
http://www.serpentinegalleries.org/

アフ・クリントが生まれた1862年のスエーデンでは女性が画家になる事はかなり勇気のいる事だったと思う、しかし同時にスエーデンはフェミニズム運動では進んでいた。彼女は美大時代に出会った他の4人の女性と共に「5」と言うグループを作り活動した。(他の4人の方の絵も見たい)19世紀末のスエーデンで女性。と言うと私の少ない知識でいうと「ニルスの不思議な旅」の作家セルマ・ラーゲルレーヴ。彼女はフェミニズムの運動家だった。そして「長くつしたのピッピ」のアストリッド・リンドグレン、と巨匠が並ぶ。隣りのデンマークではイプセンが「人形の家」で自立する女性の姿を描いた。そこらへんまでしか知らない。知識に少ない事を悔やみながら、フェミニズムの運動ではスエーデンは進んでいたのだろうな、くらいの知識で絵を見て行く。
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正方形のキャンバスが多い、テーマは世界の秩序と進化
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彼女の絵は珍しいなあ、こんな構図の絵を描く人がいるのか。と思い説明を見ると彼女は神秘主義の影響を受けていた、と言う。黒と白に分かれた構図はインとヤン。彼女はシュタイナーの新譜神秘主義に影響されたとも書いてある。そういう意味では同じヨーロッパのスイスの女性エマ・クンツ(Emma Kuntz)の繊細な図形にも共通点我ある、2人の女性は出会った事があるのであろうか。もしもスエーデン語ができたら研究したい作家である。観念とか宇宙とかをテーマに戦ったのだからすごい。

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あの時期にヨーロッパとアメリカで神秘主義が生まれたのはどういう背景があったのだろうか、産業革命に対するリアクション?これはかなりあったらしい、イギリスのビクトリア女王は機械を貧しい人々から仕事を奪う悪魔と呼んだらしい。リアクションとして合理性だけじゃダメだよ、と言う事が言いたくて神秘主義やソローみたいに森に帰れ、と言うエコロジーを唱えた人たちもいた。それが今のエコロジーの元になっていると思う。ソローは尊敬に値する人間だと思う。あの時代は科学の目覚ましく発展した時代でもあり、H Gウエルズのタイムマシンが出版されたり、アインシュタインに繋がる科学者達の発見に世間が湧いていた時代でもある。
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几帳面な性格だったのが伺える彼女のノート、字の並び方がきれい
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私が感動したのは絵がとても良い事、一見変わった絵なのだが図形と絵の間とも言うべきか、しかしデザインではなく絵画である。しかも、多分、生前あまり認められなかったような気もするがそれでも彼女が目に見えない物、それは宇宙の摂理であったり、するのだかそれを可視化するべく一生をかけて描き続け1000枚の絵画を残した。ことだ。
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今回は8枚しか展示されていなかったが10枚の巨大な絵はたてが3メートルはある大作で、自分で紙をキャンバスに張り付けてある。つまり専門家ではないから紙が波打って、かなり苦労している後が見える。

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だいたい巨大な作品ではボードの春だけでも大変難しいのに、キャンバスのような不安定なベースに貼るのは無理がある。そんな事ばかり考えながら見てしまう。
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肝心なタイトルは幼年、青年、壮年、老年、と言うことだが、私は日本の友禅の模様に見えてきた。色と言い、模様と言い、大正時代の友禅である、なにか懐かしい物を感じた。

日本の美術館ではなかなか見られないし、ギャラリーも力不足でこのような隠れた作家を持ってくる事ができない。だからここで見る事ができてしあわせである。世界の美術館でもあまり展示していると言う情報はない、やはりマイナーな人なのだ。でも惹き付けられるものは十分あるし、誰かの家を訪問してこんな絵が飾ってあったら私は絶対気になってしょうがなくて質問するだろうし、持ち主のセンスに嫉妬するだろう。

ついでに、というかあのヴェネチアの展示でアフ・クリントと同じ部屋にあったエマ・クンツの絵をお見せする。

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この女性は美術教育を受けた事がなく、ヒーラー、霊の力で病を治すのがせんもんだったらしい。とても霊感の強い人だった、という。

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全く美しく、見入ってしまう。


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ここまで図形の美しさの話になるとアグネス・マーティンの作品も同時に見たくなる、昨年テートモダンで開かれた大回顧展は見事だった。単純な図形画これほどの静かな感動を呼び起こせる物か不思議である。
(彼女の絵は簡単にネットで見つかるので興味があったらのぞいて下さい)

この3人の女性で抽象図形画の三役そろい踏み、(え、相撲?何を言ってるんだろう私)がとにかくそろった訳でわが空想美術館として大満足である。

2016年3月30日 更新

そのポートレートは違う:自画像をめぐって


レオナルド・ダビンチの顔はなぜ賢そうなのか 

オープンカレッジに最近参加する機会があってナショナルギャラリーの学芸員レスリー・プリモ氏の講座で驚いた。今も世界中で使われているダビンチ老年の自画像デッサン、あれは実は彼が描いた物でも他人が彼を描いた物ではない。と言うことが科学的な分析でわかったそうだ。しかもわかったのはもう何年も前。でも未だにダビンチの自画像として使われている。

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このデッサン。伝ダビンチとは19世紀から言われて来た。本人がフランスで客死したのは77歳の時。あの老人の顔はよく見るとかなり老けている。ダビンチは肉体労働者でも貧困層でもない、しかも描いた時期は彼60歳の頃、と言われていた。いくら昔の人といっても60であれほど老けてはいなかったはずだ。論争の的であったが、ついに科学のメスがはいり、あのデッサンができたのは少なくともダビンチ死後100年は、と言う結果になった。
ではなぜ今だにダビンチ、というとあの顔が使われているのか。それが面白いところである。つまりダビンチ=賢者。と言う図式が出来上がっているからあの顔でなくてはいけないらしい。つまり彼の肖像と言うより彼のアイコンになってしまっている。あのデッサンの本当の作家が生きていたら何と言っていただろう。それにしても既に評価の決まった作家、(一般には死んでいる作家)を聖人のように扱いたがるのは困った物だと思う。生きて活動しているうちは無視しているくせに、死んでもう噛み付かないとわかってからあの人は凄かった。と言うことになると、その評価を継続させる為に演出をしたがる。テレビ番組でこれらの絵画を見せる時、流れる音楽は必ずクラシック音楽。ベートーベンンのシンフォニー的な音楽が流れ、「これ、偉い人」と言うレッテルがバッチリ貼られる。番組制作者の想像力の貧しさにがっかりする。

皆さんはどうでしょう、私はテレビのアート番組でクラシック音楽が流れると身構えてしまう。自分で判断する楽しみが奪われてしまうからである。

ところでダビンチは14歳でフィレンツのヴェロッキオ率いる工房にはいり頭角をあらわして行くが、工房の主、ヴェロッキオは徒弟達から男色で訴えられている。24歳の時のダビンチの(これは本物)自画像を見るとかなりの美形、師匠に迫られた事は想像に難くない。後にダビンチが独立して工房を構えると今度はダビンチも徒弟から男色で訴えられた、その訴追を逃れる為、彼は旅にでてしまう。後年美少年に入れあげてさんざ泣かされたり、道なき恋で苦労している。そしてミラノ大公に使ってもらえるように贈り物をしたり売り込み用に長い履歴書を送ったり、設計の方でもいかにたくさんの人が殺せるか、と殺人兵器の設計にいそしむ。まあ一言で言えば複雑な性格を持ち、自我と社会やお金の問題で悩んで来た、大変興味深い人間である。賢者のレッテルを貼ると面白さが半減する事は確かだ。

作家と見た目

作家のルックス、と言うのはすごく大事らしく現代アートの生みの親と言われ未だに名声のとどまる事をしらないマルセル・デュシャン。彼がもし、チビ。ハゲ。デブだったら絶対にこれほど有名になっていなかっただろう。と美術史のセマン教授が冗談でおっしゃったが的を得ていると思う。実際、写真に写っている彼は長身で痩せぎすのダンディーである。
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現代美術の産みの親にしてダンディ、絶対笑わない、長身、痩せぎす、かなり自意識過剰なマルセル・デュシャン

ルックスの重要性をいち早く気がついたのはイヴ・クライン、いつも白いタキシードで、パフォーマンスの時はシャペングラスを片手に持ったりしていた。アンディ・ウォーホルも自分の顔とあのヘヤーを看板にした。

日本の作家でも常々思うのだが、太宰治はだいぶあの写真で助かっている。反対に宮沢賢治は作品はファンタジーなのに彼の写真うつりはイマイチだから出版社はほとんど顔をださない。
ポール・オースターなども強いまなざしのポートレートでついつい買ってしまう作家である。(中身も面白いからだまされた気はしないが何も顔を強調しなくてもと思う。)

話がそれたのでまたダビンチに戻るが、彼のように写真のない時代、自分の看板=顔。を作る事は考えなかったのであろうか、それともかっこいい自画像は描いたけれど失われたのであろうか。

実はいたのである。それはダビンチの20歳年下のドイツ人、デューラー(1471-1528)である。デュシャンやイヴ・クラインの500年前、彼は多分西洋世界では初めての自分でルックスで売り込んだアーチストである。
これを見て欲しい、27歳の時の自画像だ、ドイツ人のハンサム青年ではあるが、少し横を向いてちょっと自信がない感じ、とってもファッショナブルで白黒のキャップやなんだかアシンメトリックな服は今でも原宿で見かけるしゃれお君。風景画もうまいんです、と言いたいのか後ろにしっかり描いている。
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そしてそれから2年後、全く何がおこったのでしょうか?すっかり自信をつけた彼の自画像。これはもう、ナルシズムの権化、と言うか「絵画の事なら私のおまかせを』と言う広告のポスターのようなものを描いた、しかも彼のブランドマーク、鳥居の中にイニシャルが入っているようなあのモノグラムを絵画の目立つところにでかでかと描いている。これが登録商標でなくて何であろう。

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例のモノグラム。サイン、と言うかブランドのマーク
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これ正直、キモいでしょ。2年間に彼の頭の中で何が起こったのか。興味深いです。これほど自分大好き人間になってしまった、というか商売に自分のツラを使う決意をしたのです。ブランドマークなんか作って、芸術家として恥ずかしくないの?と言う非難は当時もたくさんあったでしょう。でもおかげで商売繁盛、今だに有名です、もし子孫が残っていたらさぞかしお金持ちでしょう。彼は確かにピュアーな芸術家ではなかったでしょう、しかし、注文が来なくては絵も描けません。絵の具高いので自分の為に描く、なんて考えはまだありませんでした。ひたすら注文を受け、お客様の気に入る絵で自分でも恥ずかしくないものを工夫して描いていたのです。当時、理想の芸術家の人生とはなんであったか知りたいところです。だいたい何がピュアーなのかも知りたいところです。

ルネッサンスの時代の絵画で現存しているのは10%と言われる。戦争や火事などで9割は失われたらしい。それにしても我が国よりはずっとましである。何しろダビンチの時代は日本で言えば応仁の乱の時代である。そのころに誰がどの絵をいくらで買った、とか男色の訴えの裁判記録だとか、イタリアでは実に様々な資料から当時を検証できるが、日本ではどうなのであろう。雪舟の30歳年下に生まれたダビンチだが我が国では彼の人間的な様子を忍ばせる資料は残っていいるのだろうか。
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ちなみにダビンチは1452年−1519年
雪舟は1420年−1506年 同時期に違う土地で活躍している。

 雪舟の自画像もダビンチに劣らず力がある、しかし日本にはルネサンスのように資料がないから彼がどんな暮らしをしたか詳しくはわからない。想像を巡らすとっかかりさえ与えてくれないのが寂しい。

自画像を巡るポートレートサーフィンは自我と社会、と言う面白いテーマを浮き彫りにしてくれる。

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潮田 バルー あつ子
アツコ・バルー
Atsuko Barouh

ラミュゼ主宰 / 通訳・翻訳家


ラミュゼ主宰。パリ第五大学人類学科卒業。フランスのインディレーベル『SARAVAH(サラヴァ)』の運営に1988年より関わる。2002年『L'amusée(ラミュゼ)』設立。滞在型イベントハウス『ラ・ケヤキ』(2003年)、ライブハウス『サラヴァ東京』(2011年)につづき、アートスペース『アツコバルー arts drinks talk』(2013年)をオープン。渋谷を拠点に文化の交流と発信に情熱を傾けています。

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